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たとえば夏のベンチに置かれた“○○○○○○○”のような

今朝、洗面所で顔を洗おうとして、脱衣所に落ちているリップクリームに気づいた。そういえば昨夜床に落として、そのまま忘れていたのだった。

うっすらホコリのついたリップクリームを拾い上げながら、突如“生きている”実感がググッと迫ってきた。喉元を押し上げるような、その勢いに押されて思わずふふふと笑い出したくなるような、圧倒的な実感だった。


たとえば自分の人生が映画になったとして、その脚本には「脱衣所でリップクリームを拾い上げるシーン」なんか絶対に入ってこないんだよなあ。物語には何の影響も与えない、何の伏線にもならないワンシーン。だけど、そういう一見無意味なカットの積み重ねで、私という人間は成り立っているんだよなあ、と思ったのだ。

Facebookには書かない、わざわざ友達に話すまでもない、自分でも3分後には忘れてしまうような小さなできごとたち。1ミリの飾り気もない、日々の一コマ。

これまで積み重ねては忘れてきた、そういう小さなシーンたちが、そのときふと存在感を持って迫ってきたのだ。


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「○○○○○○○おかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏」
この短歌の最初の7文字に何が入ると思う?



少し前に、友達がこんなLINEを送ってきた。

これは村木道彦さんという人の短歌で、正解は「うめぼしのたね」、らしい。

「うめぼしのたねおかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏」

みずいろの、夏のベンチにひとつ置かれたうめぼしのたね。「コカコーラの缶」でも「図書館の本」でもなくて、「うめぼしのたね」。


ああそうだなあ、現実を生きるってそういうことなんだよなあ。

うめぼしのたねが置かれたベンチにふと目を留める。村木道彦さんの人生が映画になったとしても、そんな地味なシーンは脚本には入らないだろう。

ハッと一瞬目を止めるだけの、その瞬間のためだけに存在する一つの風景。その先の人生には何の影響も与えない、一つの事実でしかない風景。そういうピリッとした“今”を見つめることって、実はすごく難しい。


明日の天気予報をチェックしたり、仕事の納期を気にしてみたり。私たちはいつも未来を見るのに忙しい。目を細めて、少し遠くの未来に目を凝らす横で、“今”はびゅんびゅん過ぎ去っていく。

そうやって過ぎ去る意味のないシーンたちは、思い出からきれいにトリミングされて、枠外にはじかれてゆく。日々の営みの中で私たちは、どれだけそういう“今”に出会って、そして忘れていくんだろうなあ。


***

将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。運命、カルマ…、何にせよ我々は何かを信じないとやっていけないのです。(スティーブ・ジョブスのスピーチ

「Connecting the dots」、つまり「点と点をつなげる」はスティーブ・ジョブズの有名なことばだけれど、ここでいう「dots」にすらならないできごとが、きっと生きる時間の大半を占めている。そんな塵の集合体のようなものが“私”なのだなあ、と思う。


そんな儚さが、ふと愛おしくなったのでした。おやすみなさい。


(村木道彦さんの短歌は、穂村弘さんの「短歌の友人」の中で紹介されています。教えてくれたのはいっけーさんです)

あしたもいい日になりますように!