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戦わずして、世界に“属する”ことはできないのかもしれない

僕らは何かに属していないと、うまく生きていくことができません。僕らはもちろん家族に属し、社会に属し、今という時代に属しているわけなんですが、それだけでは足りません。その「属し方」が大事なのです。その属し方を納得するために、物語が必要になってきます。物語は僕らがどのようにしてそのようなものに属しているか、なぜ属さなくてはいけないかということを、意識下でありありと疑似体験させます。そして他者との共感という作用を通して、結合部分の軋轢を緩和させます。

村上春樹さんが読者からの質問に答えるインターネットの連載をまとめた、『村上さんのところ』という本がある。その本に、40代の男性からの「なぜ人は物語を欲するのですか」という質問が載っている。それに対する答えが、上の文章だった。

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わたしは4〜5年前に、はじめてこの文章を読んだ。なるほどなあ、と表面で納得しながらも、結局どういうことなのかよくわからずに今まで過ごしてきた。

この答えで書かれていることはきっとすごく大切なことだ、という感覚はあるのだけど、どう大事なのかがいまいちピンとこない。ただ、この答えが強烈に印象に残って、小説を読むとき、映画を観るとき、たびたび「属し方を納得するために、物語が必要」ということばが頭に浮かんだ。

ついこの前、家でみーさん(夫)と夕飯を食べているとき、この文章の話になった。「村上春樹が言ってた、『人にはなんで物語が必要なのか』の答えって、どんなのだったっけ」から始まって、ふたりともなんとなくは覚えているのだけど、はっきりした答えにたどり着けない。それで、改めて村上さんの答えを読み返してみた。

ふたりで話していたら、その答えの輪郭がどんどんくっきり見えてきた。(ほとんどは、みーさんがていねいに解説してくれたおかげなのだけど)

「属し方を納得するために物語が必要」というのは、つまり「こんな関係性で、こんな状況のときは、こんなふるまいをするんだよ」というのを、物語の登場人物に習うということ。こんな関係性の相手にはこういう言葉遣いをするものなんだとか、こういう感情はこういう行動で表されるものなんだとか、こういうふうにコミュニケーションをとるものなんだなとか。

もちろん、物語を通じて染みついた「こうあるべき」が、大人になってから枷になることもある。だけどそもそも、物語がないと、(少なくとも人間の世界においては)「こういうものだ」というベースすら作ることができない。


そして最近気づいたことなのだけど。子どもと一緒にアニメを見たり絵本を読んだりしていると、子ども向けの物語って大きく2つのフォーマットしかないな、と思う。

ひとつは、「悪」と戦うもの。もうひとつは、困っている人や仲間を助けるもの。

前者はたとえば、『アンパンマン』『シンカリオン』や、○○レンジャーみたいな戦隊もの。『機関車トーマス』『忍たま乱太郎』あたりは後者かな?両方が組み合わさったパターンも多い。

なんでそうなるんだろう、と考えたときに、それが村上さんの答えと重なった。世界に“属する”ためには、きっと、そのふたつを避けて通ることができないのだ。

物語が、“世界との属し方”を知るためのものだとしたら。わたしたちは、「不都合なものには戦いを挑んで、困っているときには助け合わないと、世界に“属する”ことができない」ということなんじゃないだろうか。戦い方や助け方にはいろいろあるし、やり方を強制すべきものではないと思うけれど。でも、世界で生きていくために、そのふたつのマインドは必須の装備なんじゃないか。だから子どもの頃から、物語を通じて、いろんな形で、そのフォーマットが繰り返し伝えられるんじゃないか。

アンパンマンがバイキンマンと「戦う」ことを放棄したら、機関車トーマスが仲間のピンチを救わなかったら、そもそもストーリーとして成り立たない。それと同じで、わたしたちも必要なときに何かと戦ったり誰かを助けたりしないと、“世界”に属すことができずに、存在しないものとしてこぼれおちてしまう。それはたぶん、「人生を物語と捉えるか否か」という話じゃない。

できれば怒りたくもないし戦いたくもない。人に干渉しないほうがラクだと思うときだってある。けど、人間として生まれちゃったからそのふたつは避けて通れない、しょうがない。と、なんだかようやく腹をくくれた気がする。今さらだけど。

さいきん誰かと、「怒る」ことについてどう思うか、という話をすることが多いので、いま思うことをふと整理したくなりました。さっき聴いていた曲の最後が「優しいだけだとダメなのだとふと思う」だった。そうよね。


あしたもいい日になりますように!