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『沈没家族』に思うこと

『沈没家族』というドキュメンタリー映画を観た。

婚外子である加納さんは、1歳のころから、母・穂子さんのほか、呼びかけをきっかけに集まった大人たち(保育人)に共同で育てられた。2歳半になってからは東京・東中野にある3階建てのアパート(通称「沈没ハウス」)に母とともに入居し、たくさんの保育人たちと暮らすことになる。
「沈没家族」で僕は育った。“普通”じゃない家族で育つ子供は、不幸せなのか。 より

沈没ハウスで育った加納土さんは、大学生になり、自らが監督として沈没ハウスを振り返るドキュメンタリー映画を制作する。それが『沈没家族』だ。

ドラマでいわゆる“普通の家族”を見たとき、沈没ハウスとあまりに違いすぎて、僕には家族がいないんだなと感じた」という趣旨のことを、土さんは映画の中で言っていた。悲しいとかいやだとかではなく、ただ事実としてそうなのだ、というニュアンスだった。

そして、土さんの産みの親である穂子さんは、そのことばに対して「沈没ハウスは、普通の家族とは違う形の家族だと思えばいいじゃない」と言った。だけど穂子さんは穂子さんで、沈没ハウスを“家族”とは捉えていないんじゃないかなあと、そんな雰囲気が伝わってきた。


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「普通の家族」なんて、存在しないと思っている。人の数だけ関係性の形があって、それは普通名詞では到底説明しきれない。

だけど、「普通の家族」のフォーマットに一旦収まっておくことはできる。そして、そのフォーマットに収まっておくことで、いろんな面倒を避けられるのは事実だ。

男女で籍を入れ、2人でor子どもと一緒に核家族で暮らしていれば、「どうしてそういう家族の形を選んだのか?」「あなたたちは家族と呼べるのか?」とは、ほとんど問われない。夫・妻ということばを使えば、それ以上関係性を追求されない。

これってすごく楽なことだなあ、と思う。


だけど、沈没家族で育った土さんは、「家族ってなんだろう?」とこれまで何度も自問してきたはずだ。「あの人たちは家族なの?」と、何度も尋ねられてきたはずだ。そのたびに、日々の生活に散らばるニュアンスをかき集めて、自分のことばで説明をしてきたはずなのだ。


「結婚は覚悟が必要」だと、これまで何度も聞いてきた。婚姻届を出して戸籍上の家族になることも、もちろん簡単には解消できない責任を伴うものなのかもしれないけれど。

共通言語で説明できない道を選ぶことだって、それ以上の覚悟が必要だ。そして、“どんな生き方も平等に説明責任を問われない”のが理想だよなあ、と思ったのでした。

映画、すごくおもしろかったです。

あしたもいい日になりますように!