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ノスタルジーの効用

数年前まで住んでいた町を、久しぶりに訪れた。

好きな古本屋はそのままだったけれど、エキナカの店が変わっていたり、駅前におしゃれなカフェができていたり、でもやっぱり地面のあたりをゆるゆる流れる根底は変わらなくて、こそばゆくなる。

駅から(前に住んでいた)家までの道をたどる途中、かつて同じようにその道を歩いていた自分が、ときどきひょこっと現れる瞬間があった。セミの声。日差し。坂道。いつかと同じ空気がスイッチになって、それが押された瞬間、3年前の私が飛び出してきて耳打ちしてくる。

「あなたあのときこういうこと考えていたよね」

それがあまりにも鮮明なので、私はびっくりする。

駅前の大通りはゆるい坂道になっていて、当時安物の靴ばかり履いていた私は、よく靴擦れと闘いながら体を傾けてその道を歩いた。ありあまるエネルギーをどう使えばいいのかわからなくて、何が正しいのかもわからなくて、よく泣きたいようなどこかへ行きたいような気持ちになった。何でもできるような気もしたし、いや結局何もできないんじゃないかとも思った。

家の近所には、Rさんという女性が切り盛りする小料理屋さんがあって、そこでよく鯖や秋刀魚の定食を食べた。魚の味は正直あまり覚えていないけど、お酒が飲めない私はいつもプラスチックのボトルに入ったぬるいウーロン茶を飲んで、そのぬるさだけなんとなく覚えている。定食を食べて、常連さんも交えたくだらないおしゃべりをしながら、今のこの生活はいつまで続くのかなと、不安になったり悲しくなったり楽しみになったりした。

あの頃私たちは4人で暮らしていて、しょうもないことでいつも笑っていたけれど、それぞれがお互いに言えないことはきっとたくさんあった。私がそうだったように、みんないつも何かに迷っていたり、悲しいことに蓋をしたり、逆に嬉しいからこそ誰にも言わないでおこうとこっそり秘密をつくったり、たぶん、していた。

坂の途中で薄ピンクになっていく空を見ながら思い出す。そういえばこのあたりで、嬉しいメールをもらったことがあったな。あの曲よく聞いていたな。あのマンションの前で悲しい電話したことあったな。あのとき作ってもらったごはんおいしかったな。

わざわざ誰かに言うまでもなく、言語化するまでもなく、その場で飲み込んだたくさんのこと。みんな、ひっそりその場所に住み着いていた。消えてしまったと思っていたけど、ちゃんと残っていた。私は数年の時を経て、拾うことができた。なんだこんなふうに書き残す必要なんてないじゃないか、とちょっとだけ悔しい。

だから、今モヤモヤと抱えている言語化できない何かがあるのなら、感情の原型のまま、ぽろぽろ垂れ流して生きていけばいいと思うのだ。 それは自分の意志に反して、持ち物や土や風や音や匂いにしっかり憑依する。そして、未来の自分がそのうちきちんと拾いに来てくれる。

未来の自分のためにできることは、心の奥のほうをパカッと開いて、今周りにある景色をたくさん吸収しておくことだ。いつか同じ景色に出会ったときにすぐわかるように、色や温度や熱や振動や光の輪郭をきちんと見ておくことだ。そしたらきっと、大丈夫になる。

何が大丈夫なのかはよくわからないけど、なんだかそんなことを思った。

(2016.7.24)

あしたもいい日になりますように!