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“新しくない”選択にだって、誇りを持ちたい

「新しい働き方」「新しい暮らし方」ということばは、もう聞き飽きた。地方移住。多拠点生活。シェアハウス。フリーランス。副業、複業。“普通”の定義はどんどん曖昧になって、自分の進む道はどんどん選びやすくなっている。自分に合う生き方を選べるのは、すてきなことだ。だけど一つだけ、いつもモヤっとすることがある。


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知人で、結婚せずに子どもを産んだ女性がいる。男性と2人で暮らすことや、核家族で子育てをするスタイルにうまくハマれないと判断し、子どもの父親である男性とは婚姻関係を結ばずに、長屋に暮らして近所の人と助け合いながら子育てをしている。

彼女はこれまでに、何度もメディアの取材を受けている。テレビやWebのインタビューでは、「選択的非婚」「選択的シングルマザー」という紹介のされ方が多い、と話していた。ただ、彼女自身が自発的に「選択的」ということばを使うことはないという。

「ふつうに法的結婚をすることだって、“選択”の結果だから」

そう話す彼女のことばを聞いて、それまでにモヤモヤっとしていたものの正体が、一気にクリアになった気がした。


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2年前に結婚した。婚姻届を出し、神社で式を挙げ、親族だけの小さな披露宴をした。今は家族3人で東京のマンションに暮らし、子どもを保育園に預けながら働いている。

まあ、とくに新しいこともなく、“普通”だ。だけど、普通だからといって、選択をしていないわけじゃない。この人と結婚したいと選んだのも自分だし、東京で働くことを選んだのも自分だ。

「新しい働き方、暮らし方」が、「自分らしく生きている」という文脈で紹介されているとき、私はいつもモヤっとする。(そもそも“自分らしく”って何?というのはさておき)「新しい働き方、暮らし方」をしている人は能動的に選択をしていて、「新しくない働き方、暮らし方」は受動的で選択をしていない、というニュアンスをほんのり感じるからだ。

“敷かれたレールに乗る”という比喩があるけれど、実際の人生は、電車みたいに乗っていれば勝手に目的地に着くわけじゃない。どんなに受動的に見えたって、すべては自分自身の選択の結果であるはずなのだ。


周りには、チャレンジングな環境に飛び込んで、イバラの道を切り開いている人がたくさんいて、私は彼・彼女らをすごく尊敬しているし応援している。そして私自身も、いつでも飛び出せる準備をしておきたいと思っている。その一方で、「新しくない」選択だって、きちんと肯定しながら生きていきたい。それぞれの選択に込められた決意の重さに、優劣はないと信じたいのだ。


(と言いつつ今後の身の振り方はいつも悩みのタネなので、おいしい焼き鳥でも食べながら誰かと話したいです)

あしたもいい日になりますように!