努力は「やりたいこと」のためであるべきか

うたた寝して起きたら、平成最後の7月が終わっていた。今年は夏の始まりが早かったから、「もう8月か」より「まだ8月か」のほうが強い。すでに夏を生き抜き切った感じがする。まだ8月かあ。


「毎日なにかを書こう」と決めてから1ヶ月が経った。

毎日文章を書いている、と誰かに話すと、“その先のやりたいこと”の話になることが多い。この前、大学時代の恩師と久しぶりに飲んだとき、「君はブロガーなんでしょう」と言われて、えっ、と変な声が出た。ブログでお金を稼いでいるわけじゃないので、ブロガーは名乗れない。でも、「趣味で書いてます」も何かが違う。

「作家になりたいの?」とか、「ライターをやりたいなら媒体に応募してみたら」とか、いろんな人が“たくさん書いたその先”の話をする。だけど、少なくとも今は、作家になりたいともライターになりたいとも思わない。そして、そのことをいつも上手に説明できない。


以前「ほぼ日の塾」で、糸井重里さんと燃え殻さんの対談記事を書いた。その中で燃え殻さんが、資料集めと称して美術展のチラシや古雑誌に載った広告コピーを集めていた、学生時代の話をしている。

何の資料かもいつ発表するかもわからない。
いつか役に立つであろう資料。

いつか何かになるんじゃないかって、淡い、淡い宝くじみたいなことを思いながら、こうなりたいっていう努力じゃない努力をしてたんですね。

まさに、これなのだ。

何かのためじゃない努力。いつかもわからないけれど、いつか何かの役に立つかもしれないこと。こうして日々文章を書いていることが、いつか私や誰かを助けてくれることがあるかもしれない、という淡い確信があるのだ。


編集の仕事をしているので、周りにはしっかりと目標を見据えて文章を書いている人がたくさんいる。「ライターになりたいです!」とガンガン書き仕事をこなし、寝る時間を削ってものすごい努力をしながら突き進むエネルギーを、日々間近で見ている。私はその子たちに、絶対に勝てない。「新しい媒体の仕事決まりました!」と着実に夢をつかんでいく彼、彼女たちを見て、私もそういう目標のある努力をしたほうがいいんだろうか、と考えたことは一度や二度ではない。だけどやっぱり、そこで勝負をすべきじゃないというところに戻るのだ。


そしてその上で、私はどうしても、文章がもっと上手になりたい。これは恥ずかしがらずに言っておきたい。「ライターになりたいわけじゃないし、ほどほどでいいや」と無駄にかっこつけるのはやめたい。いつかどうしても伝えたい、その温度を残したい何かに出会ったときに、「もっと文章が上手ければ…」という後悔だけは絶対にしたくないのだ。


何のためにもならないかもしれないけれど、“やりたいことのためじゃない努力”があってもいい。今日はもう寝ちゃおうかな、誰も困らないしな…と何度も折れそうになりながら、なんとか細々と書き続けたこと。それがいつかの自分や誰かを助けてくれると、それだけはぼんやり信じているのだ。


あしたもいい日になりますように!