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透明な列車に乗って


暗い話をするときに限って文字を綴る。


先日、祖母が亡くなった。

人の死にかなりの恐怖感と執着がある私は、改めて「天国」という概念があって心底良かったと思った。天国を何かの宗教的な意味で信じているんじゃない。ただ、死んだ後に会える場所として天国という場所の概念があって良かったという意味だった。

実際に会うことさえできるのなら、そこは天国じゃなくてもどうでもいい。

死んだら天国で、会いたい人に、会いたい姿で会えるということ、が決まっているということ。

根拠がなくても信じたいことだった。信じたいというより、そうじゃないと生きていけないから、勝手に自分の中でそういうことにしている。


お葬式の人が棺を閉めるとき、「故人との最後のお別れです」って言っていたけど、最後じゃない、って心の中で思っていた。棺を火葬場に入れる時も、また天国で会えるとだけ心の中で唱えていた。


『お嬢さん、天国で会えるというのなら、人は何故今ここで涙を流し、人の死を引きづるのかね』

『悲しんでいることこそ、永遠の別れに対する予感ではないか、それはつまり、天国では会えないという事実ではないかい』

『いいえ、今悲しんでいることが天国で会えない事実にはならないわ。現世で会って話すことが現在進行形で出来なくなったことに悲しんでいるのよ。たとえ天国でまた会えるとしても、今一緒に時は過ごせないのだから。』


お葬式が終わった後、祖母の家で祖母の姉が書いた文章を見つけ、家に持ち帰ってきて読んだ。現代の感性が嫌になるくらい好きな文章だった。綴られた話には、愛犬や友達、最愛の人との別れがあった。私は既に彼女自身の死も経験していた。読み終えた後、おばちゃん(祖母の姉)は天国で、心から会いたかった人達に、自分の会いたかった姿で、絶対に会えていると思った。その光景がありありと浮かぶのだ。


それなのに人を失うことは怖くて仕方がない。そのことに耐えられるかはいつどんな時も不安にさせる。結局は、天国で会えると信じているに過ぎないからだった。人の死を経験したくないために、自分の方が先に消えることができたらと思う。父が死んだことは父がもう死なないことを意味している。だから父がもう死んでいることに安堵を覚えるほどだった。

天国がないとしたら、もし死んだらそこで本当に何もかもが終わりなのだとしたら、故人に想いが届いていると信じて祈ることにも意味がなくなる、人の死はもう二度と叶わないことへの絶望を増幅させる。その場合、代わりに私も死んだらそこで何もかもが終わりになるので、故人に対する恋しさも、会えると信じていたことがそうじゃなかったとかいう絶望も、死んだ後に感じることはない。それでも生きている間は辛い。


だから生きている間は天国で会えることを約束されていると信じるしかない。棺に入れた手紙は天国に継承されて読んでもらえているに決まっている。そして現世で祈る想いも届いていて、いつも見守ってくれているに決まっている。そして先に逝ってしまった人たちはそれぞれ、天国では自分の会いたい人に、会いたい姿で会えているに決まっている。そして私もまた、いつか天国で会えることが決まっている。会いたかった人に、会いたい姿で。ねえ、そうでしょう。そうじゃないと生きている意味がない。そうじゃないと。


『お嬢さん、根拠がないということは君をいつも不安にさせるかもしれないけれど、根拠がないということはまた、君の言うことが存在する可能性でもあるのだよ。信じていて良かったと涙を流すために、一生懸命に生きなさい。ただ一生懸命に生きることができたなら、きっと君をひとりにはさせないだろう。天国で皆と会えた時、やっと会えた時、その時きっと、生きてきて良かったと思えるのだよ。』





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