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トッポッキは食べたくても



ずっと下書きに入ったまま放置していたので、すごく時差がある。そして、本の題名と関連しているだけで、感想文ではない!

「死にたいけど、トッポッキは食べたい」

2も読んでみたけど、そもそもこう思っていた。

そんなことより「トッポッキは食べたいけど死にたい」の方なんだよな〜!と。



(精神に関するお話が苦手な方はお控え下さい)


私は、この作者とは問題の種類が違う。だけど、この本のようにカウンセラーという存在との対話には経験がある。

初めて訪れた場所は、期待外れだった。
名前だけが精神科医であるその医者は、私に責められて、最後は少し涙目になっていたようにすら思える。前に進もうとした場所で気持ちを踏みにじられること、その絶望感は言葉では表せない。雨が降る中、泣きながら人ごみをかき分けて歩いた。

次の人も、その次の人も。
あくまで私の場合ではあるが、本当に、何の手助けにもならなかった。
私のことを何も知らない通りすがりの通行人ですら分かるようなことも、何故だか分かってくれない、時間と労力ばかりを奪って、棘を逆撫でられるようなことばかりだった。

友達の紹介で出会った先生だけは唯一、私の話をそのまま理解しているように思えた。話を理解しているか、という観点においてのみでも、ちゃんとしている人に出会うのは、本当に困難な事だった。

私が死なないか心配じゃないのかなとか、思っていた。「そりゃ心配だよ〜」と先生は言うだろうけど、相手が死んでしまって二度と会えなくなることを考えたら、もっと慎重に行動するのにな、と私は思う。人を失って後悔するのが怖い。二度と叶わなくなることが、どうしよもなく怖い。それとも、そんなに神経質になってまで生きることは正解ではないのだろうか。


一番危ない瞬間、

心に、黒いインクがポタポタと垂らされる感覚、
感情は刃物に変わり、グサグサと刺されながら血だらけで歩く、呼吸は上手く出来なくても心臓は止まらない、流れる血は透明だから見えない、すれ違う人達は気づかない、隣に座っている人が、目の前を歩く人が、血だらけであっても。

命を繋ぎ止めているのは、私が、血だらけでも帰ったからで、泣きながらでも歩いたからだった。

先生が後悔せずに済んでいるのはそのお陰じゃないか、当たり前に存在してると思わないでよ、だって次また会える保証なんて、誰にもないのに、と思っていた。今でもそう思っているところがあるかもしれない。


結局は自分自身の問題だった。

いくら先生があなたは人間だと言ったって、私には鏡に映る自分が妖怪のように見えた。そういう話をずっとしていた。

だけど多分悪いことだけじゃなかった、そう思いたい。

現実が確実に変わるような解決策を貰えなくても、一生懸命話した。ある時は、雨の日に一人でよく来れたね、と言われて。ある時は、時間内に全て話しきれるようにメモを持ち込んで。確かなことを話しても、不確かなことを抱えて帰ることになるのを、分かっていても。

受付の人は、何故か私のことを、下の名前でちゃんをつけて呼んでいることに、最後に気が付いた。
もう何も得ることがないので、行くのをやめる。要約すればそういうことを、最後に電話で伝えた。
無責任に、「____ちゃんの方が、人を救えそうね」と、電話口で私にそう言った。

なんだよそれ、と思った。私は、救い出して欲しくて、藁にもすがるような思いで、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと。
だけどもう、私は最初の時のように、怒ったり、泣いたり、一生懸命訴えたりしなかった。諦めて、携帯を耳にあてたまま寝ていた体を起こしてみたら、
「あら、なんだか声も元気になってきたね」と、そう言われて、なんだかもう、ああ、本当に、絶望的に何も分かっていない、と思ったけれど、もうそれっきりだ。


この記事を編集した後眠りについたら、なんと夢にパパが出てきた。
起きた瞬間、夢をなるべく忘れないように、急いで思い出した。夢の中で、多分パパの服の、煙草っぽい匂いがした。

夢を入念に思い出したあと、私、もう少し頑張れるかも、と思ったりした。

ああそうだった、人の背中を押す最後のきっかけはいつも、ほんの些細な瞬間だった。良い時も、悪い時も。

それは、確かに、死にたいけどトッポッキは食べたい、なのかもしれない。



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