コスパもタイパも貧乏くさい
落語家の立川談慶さんがある新聞の「古典落語のキャラに学ぶ」という記事の冒頭で、コスパとかタイパって言葉は貧乏くさくて大嫌いだと言い放ってました。
私もコスパやタイパという言葉がなんとなく嫌いでしたが、その言葉の何が、どこが嫌いなのか自分でもはっきりとはわかりませんでした。
立川さんは、実際の貧乏は仕方ないにしても、わざわざ貧乏くさくするのはいただけないと言います。
以前にも、このようなことを言っている人がいたと思うのですが、誰だったでしょうか?
貧乏くさいというと、節約とか、備品の持ち帰りを思いつきますが、立川さんのいう貧乏くさいはそうではなく、落語の登場人物にあるおおらかさのない、これだけ時間を費やしたのだから、それに見合う利益をよこせという根性です。まさにタイパ・コスパです。
そうなんです。コスパやタイパは貧乏くさいのです。
私は最近よく見かける読書礼賛も気に食わないです。読書は独学としてコスパもタイパもいいというかんじで、これだけ読んどけばいいみたいなかんじです。
最近読んだ、三宅香帆さんの「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」には、そのへんのことが詳しく書いてあり、とても面白かったです。タイトルになっている設問の答えは、読書史と労働史というユニークな歴史観で表されています。まさにコスパ・タイパのはなしです。
映画を早送りで見る人たちや、ファースト教養なるものにも言及していますが、この本の要約もでていました(笑)
このサイトを読めばコスパ・タイパいいかもです(笑)
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