スマートな能登からの撤退?
今朝いつものように書きものをしながらラジオでNHKニュースを聞いていたら、能登撤退という言葉が耳に入った。なんだろうと思い注意して聞いていると、人口減少が顕著な過疎地域で起きた震災では復興ばかりではなく撤退ということも視野に入れなければならないという話である。
ツイッターで、住民は能登から撤退することを主張している人がいて、それはショッキングな発言ではあるが、単純な能登撤退ではなく、よりスマートな撤退議論が必要である。震災というと復興が当たり前だが、一律の復興には注意が必要、とかいうようなことを慶應大学教授で法哲学が専門の大屋雄裕(おおやたけひろ)さんが言っていた。
そういう選択肢もあり得るし正論だと思う。
問題はこの人の話しぶりが、あたかも差配師・手配師が日雇い人夫を現場に割り当てるかのようなものであることだ。
大屋はひとつの例として、農地をそのまま過疎地に残して住居のみを町のほうに移して通勤することを挙げている。インタビュアーからの、高齢で車の運転ができなくなるということも考えられるが?との懸念には、笑いながら、それは引退時ですよ、そうなれば生活もできないわけで、そうなったときに医療も生活もままならないよりは、早くから移動しておいたほうがいいです、と言うのだ。
一律の対応・対策以上に、大屋の人間を一律に、一括りに論じる姿勢は問題がある。
インタビュアーによると大屋は専門である法哲学において、問題の本質を見極めることを主旨としているということだが、本質をここまで見誤る大屋の、それが研究スタンスであるなら皮肉というのも憚られるほどのたちの悪いジョークではないか。
研究者としてどんな著作があるのか少し調べてみると、「自由か、さもなくば幸福か」というものが出てきた。読んでない段階での決めつけはなんだが、Amazonの評価、何よりもこのタイトルで大屋の根本的な、大屋流に言うなら本質的な勘違いがわかる。
恐らく大屋にとって自由とは、人間の際限のない欲望を追求すること、そしてそれを実現することであり、それは近代以降人間が進んできた道である。その対極にあるのが自由と引き換えの監視つきの縛られた幸福ということのようだ。
研究者というのは自らの新たな視点で物事を捉えようと努力するものと思っていたが、そうでもないのか。追従、賛成でも教授とかいう仕事に就けるのか、知らなかったな😑
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