とはいいつつ、期待してる

“期待されることの愉快不愉快”について、つい最近書いたばかりで
そう言う自分は周りに期待をしていたなぁと反省している。
不満の矛先が間違っていた。


“期待するから悲しむ”
それがわかっていても、勝手に期待して、裏切られた気分になったり落ち込んだりする。
初めから、期待なんてしなければ裏切られることなんてないし悲しむことなく生きていけるんじゃないか。
でもそれが普通になった時、本当の“かなしみ”が訪れてしまうような気もする。


“期待しない”は、“関心がない”のと同じこと
無関心は、相手が空気のような存在になると言うことに思う。


期待しないことは、“諦め”にも近い。

大好きなカフェで、店主が、私の知っている人のことを“苦手”だとか“やばいやつ”だとか言っていて、悲しくなった。
私に向けて言ったのではない。
他のお客さんとの話が聞こえて、それがたまたま私の知っている人の話だった、と言うだけの話。
知っている人と言っても、会ったことも話したこともない、人づてに知っているだけの人のことだ。
でもそれがどうしようもなく不快に思えて、読みかけの本を閉じてタプタプに注がれたシナモンラテを飲み干してさっさと退店してしまった私。


店を出たあと冷静になって、私は気に入りのカフェの店主に何を期待していたんだろうと我に帰った。
あれだけ自分に期待しないで欲しいと思っていたのに、私自身周りに色んな期待を抱いていた。

“カフェ”の雰囲気に飲まれて、いい気分になって、その場を作り出す店主には穏やかな人でいて欲しかったのだ。

いかにも、自分勝手な考え。

店主だって人間だ。
人それぞれ、得意、不得意の人間関係があって当たり前。
誰かに不満を抱いたり、自分とは合わないと感じたりするのも、何ひとつ間違っていない。
言ってしまえば、赤の他人の新たな一面を見ただけなのに不快に思ってしまったのは、私が勝手に期待をしていたからだろう。

その場にいた私は

- なんか、がっかりしたな。

これが私の率直な感想だった。


きっとみんな、誰かに期待して、だれかの良心に甘えたりしている。
自分もそう。


誰にもがっかりされたくないなら、良い人であり続けなくちゃいけない。
でもこれも、“良い人”の定義は人それぞれあるっていうんだから難しい。

私は誰かのいい人になれているだろうか。


結局、正解がないのなら
自分にとっての“良い人”をやり遂げるしかないのかもしれないね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?