異なる世界線と接続すること

先ほどから以下のクラムボンの曲を聞いてたらあまりにエモい気分になったので、ちょっと文章に残しておこうと思い立ったけどでもたぶん明日の朝には消すんじゃないかこういうエモ系の文章って大体振り返れば恥とか思いながら書いてます。

いや、この曲はやばい。クラムボンがやってくれた。

もちろん、曲としての良さもある。クラムボンお得意の背後にあるくりかえしのリズムに複雑な音が交差する構成。これが独特の奥行きとふんわりとしたリズム感を作り出す。葉桜の季節そのものみたいな曲だ。

それにしたって歌詞がいい。これは、異なる世界線が、異なる世界線でありつづけながら、その世界線とわたしの接続を歌う曲なのだ。曲の最後のほうで歌われる歌詞を抜粋しておこう。

あのひとつひとつに 日常があって

わたしの知らない 物語があって
どんな風に出逢い どんな風に別れ

どんな風に今を 見つめているんだろう

ここには運命などで世界線が収束するような、J POPでしばしば見かけるロマンチックな志向を微塵も感じない。あるのは平凡な日常への志向だ。「タイムライン」という主題からもわかるように、ここで歌われているのは、SNS上の、「たまたま夕陽がきれいだった」とか「子犬が可愛い」とか、そういう類の話なのだ。

さらに言うならば、これらの日常は、それ単体で自律している。他からの干渉可能性がない。「それぞれのタイムライン」は、それぞれが独立して存在している。これらを接続されるのは、そのタイムラインの受け手(わたし)においてのみである。

いつどこでなにが起きるか わからない世界の果て
パラレルに日々はつづく つづける を つづけてゆく
広がるこの空の下 わたしもここにいるんだって思った

接続するはずのなかった平凡な日常が、わたしを媒介にして接続する。もちろん、だからといって、他の世界線に影響を与えるわけではない。でも、わたしには接続している。このことがなぜここまでの感動をもたらすのであろうか。

わたしたちからは独立した世界があること。そしてその世界をわたしが見ること、接続すること。

何がいいたいのかよくわからん文になってしまった。というわけで、この感覚については引き続き考えていきたい。とりあえず、以前に同様の感触を得た曲を以下に貼り付けておく。



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