「勉強の哲学」と「教誨師」、あと言語とか体験とか

12月後半入ってから寒いからかあんま元気がなくて何もやる気が起きなかったけど、徐々に回復してきた。とはいえ締切の原稿にいきなり取り組むとまた元気なくなるかもしれない(言い訳)のでとりあえず文章を書いてみる。
最近古着のこと書いてない。とりあえず多くの服を整理して売ろうと思っている。結構着てない服とかもあるし、最近小太りの最善解がなんかわかった気がするので、そっちの方向にシフトしていきたい。その辺りはまたふざけた記事を書くつもりだ。

元気がなくなってから読んだ本が以下の2冊。

どちらも大変おもしろかった。というか、両者の接続を考えざるを得ない内容だった。

前者の本は昨年発売されだいぶ話題になったので、説明はいらないかもしれないが、千葉雅也の「勉強の哲学」だ。同時期に発売された國分功一郎「中動態の思想」、東浩紀「ゲンロン0」はすぐ読んだのだが、なんとなく積読になっていた。
(そういえば、ゲンロンが心配だ。いろいろ事情があるようなので、部外者がなにか言えることもないし、言うべきではないと思う。だが、まずは東さんの体調が心配だ。ゆっくり休んでほしい。余談だがゲンロンがあることが救いになっている人は少なからずいる。群馬出身の私の周りにも、ゲンロンまでは遠くて行けないけれど、いつも書籍は買っている人がかなりいる。僕も何の足しにもならないかもしれないが、書籍はいつも買うようにしている。)

さて、勉強の哲学は、勉強ノウハウ本ではなくて、そもそも勉強とはなにか、勉強をするとどうなるのかを解く本だった。勉強するとノリが悪くなる/キモくなるという単純明快な解説が心地よく、ユーモア/アイロニーという区分も(少なくとも僕にとっては)わかりやすかった。

「勉強の哲学」のなかに、「器官なき言語」という言葉が出てくる。これは、ドゥルーズの「器官なき身体」という概念を拡張して作られたものとのことだ。意味合いとしては、なんの気にもとめずに使っていた言葉が、なにやらわけのわからないものとして我々の意識に立ち上がるといったところだろうか。こうした既存の言葉を「器官なき言語」にしていくことで、わたしたちのいつものノリを停滞させ、新たなノリを生成していく。これが「勉強」という営みとのことだ。
僕は心理学(あるいは社会学)的な観点から同窓会の研究をしているのだが、いつもこの「ノリ」ということを考えさせられる。同窓会とは、異なるノリがぶつかる場所であり、器官なき言語が生まれまくる場所だからだ。知り合いは、同窓会で「ジェンダーバイアス」という言葉を使って、まさに全体がポカンとした状況を作り出したと言っていた。こうした実践を検討するのに、「勉強の哲学」が提示している観点は有効なように思う。この辺りもいつか書きたい。話として面白いけど、論文にはしづらいことをここに書いていくつもりだ。

2冊目は、「教誨師」という本だ。教誨師について知らない人は、とりあえず、以下のwikiを見てほしい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%AA%A8
要するに、囚人に対して、宗教的な説教をする人のことだ。とりわけ、この本では、死刑囚に対する教誨を行う教誨師を追ったノンフィクションだ。

まず、この本は、ノンフィクション作品として非常によくできている。僕自身、エスノグラフィやインタビューなどの、いわゆる質的研究を専門としているが、その内容に引けを取らない出来だ。分野によるとは思うが、少し修正して要件を満たせば、博士論文としても通用するんじゃないだろうか。というか、リアリティという面では、現状の質的研究に、ここまでのものは書けないだろう。僕自身、この研究を、大学内でできる気がしない。スキル面でもそうだが、ほぼ間違いなく倫理規定に引っかかる。この辺りの事情は、質的研究の非常に残念というか、難しい部分だ。と同時に、民間でモノを書くということの可能性を感じる一冊だった。もちろん、そう簡単ではなく、内容のインタビューなどを見ると、本当に渾身の一冊であり、筆者のセンスを感じさせるものではあるのだが。

注意しておきたいのだが、僕はここで死刑制度云々を言うつもりはない。政治的な主張はしない。それを前提として以下の話をする。

「死刑」。この刑を知らない人は、おそらくこの国にはいないだろう。日本には死刑がある。一月に一度はニュースで死刑が話題になる。僕自身、被害者のことを思うとやりきれない事件も多い。遺族が死刑を望むのは当然だと思うことも多々ある。

しかし、「教誨師」を読んだあと、この「死刑」という言葉が、すごく不気味に見えてきた。どうにも簡単に「死刑にしてしまえ」とはいえなくなってしまった。まさに「器官なき言語」として「死刑」が現れた。そんな気分だ。

「教誨師」のなかで語られるのは、死刑囚と対話し続けた、二人の教誨師の生涯だ(厳密に言えば、一人の教誨師による回想記録と、筆者が調べあげた資料をもとにした記述であるが)。この生涯の物語を通して、我々は、極めて具体的な「死刑」という出来事に出会う。そして、この「死刑」が、器官なき言語として不気味さを回復し、そのことが死刑についてもっと知りたいという欲望を生む。その意味で、「教誨師」はまさに死刑への勉強をドライブする本だといえるだろう。

我々は日常的に「死刑」という言葉を使う。実にたやすく利用できる。それほど、「死刑」は我々のシンボル体系のなかに安住できる住処を得ている。
しかし、死刑が指標するのは、国が「人殺し」を行うという出来事だ。極めて具体的な事実だ。死刑というのは、そういう極めて具体的な事実の領域にも住処を得ている言葉なのだ。

いや、このように語るのはたやすい。このような抽象的な語りでは、死刑について語ったことにはならない。このことを本当に理解するためには、そちらの死刑の住処に足を踏み入れるしかない。読書メモとしてはどうしようもない終わり方だが、この世界に入り込むことでしか、「器官なき言語」としての死刑と出会うことはできないだろう。

というわけで、期せずしてなんとなく読んだ2冊の本が、お互いに関係しているという体験をしたので、文章として残しておこうと思った次第だ。



補遺:「器官なき言語」の位置:オリゴの不在としての器官なき言語
ここからは、もうちょっと難しいことを考えてみたいと思う。とは言っても、まだまだ思いついた程度のメモ書きなので、正確性は定かではない。

千葉は、「勉強の哲学」において、「器官なき言語」という魅力的なアイデアを提出している。これは、特定の語用論的フィールドにおいて違和感なく用いられている言葉を骨肉脱退することで、言葉が言葉そのものの生身として立ち現れた状態であるという。

この器官なき言語の前提は、ヴィトゲンシュタイン的な言語、すなわち使用としての言語である。我々は言語を使って様々なことを成し遂げており、その多くが、いわゆるその言葉の語義とはかけ離れていることが多い。例えば、会話分析者が主張するように、「釣り出し装置(fishing device)」(Pomerantz, 1980)という現象がある。これは、限定的な報告が、相手の報告の要求となるといったものである。例えば、同僚同士の以下の会話(作例)を考えてみよう。
✳︎会話分析において、このような作例を使うことがあまり好ましくないということは注記しておきたい。ここでは会話分析を行うことは主眼ではないため、このような記述を行っている。

1 A: そういえば、今日お昼いなかったね
2 B: そうそう、外に食べに行ってたの

1行目において、AはBについての報告(お昼の状況についての報告)をしている。しかし、これはBが「いなかった事」に関する報告であり、Bが他になにかをしていたことを匂わせる部分的な報告である。こうした報告を、Pomerantz(1980)は「限定的報告」と呼び、この状況では、Bは、Aに対し、お昼の状況をより具体的に報告する義務を負うと指摘した。
ここで重要なのは、Aが報告しかしていないということだ。Aは質問をしているわけではない。にもかかわらず、ここでBは相当程度の確率で報告を行うし、行わない場合でも、気まずい空気が流れたり、「Bがなにか隠している」という理解につながったりする。これが、「言語は使用である」ということである。我々は、限定的な報告を、相手の報告を「釣り出す」ために使用しているのである。

さて、若干話が逸れた。ヴィトゲンシュタイン派と千葉の主張の整合性は理論的には興味深いがここでは扱わない(例えば、千葉のいう「ノリが悪くなること」と、エスノメソドロジーを作り出したガーフィンケルの「違背実験」の関係など。)。
ここで議論したいことは、器官なき言語の条件である。それは、「器官なき言語」を、「言語は使用である」というヴィトゲンシュタインのテーゼを前提として、記号論に接続していく試みであると、ひとまず言える。

「言語は使用である」。これは、疑いようのない事実である。したがって、これらの使用規則を壊したとき、不気味な領域を切り開くことになる。このやり方として千葉が示していたものが「アイロニー/ユーモア」であった。しかし、ここでは言語的な観点から、新たな方向性で考えてみたい。

「教誨師」において、「死刑」という言葉が「器官なき言語」として立ち現れてきたことを上述した。なぜ、「教誨師」において、死刑は「器官なき言語」として生成されたのか。
これは、教誨師の日常的実践の記述を通して、「死刑」の言及対象が、「被告/受刑者が受ける刑罰」という抽象的な領域から、「その人を殺す刑罰」という体験的・具体的な領域に変化したからであろう。つまり、「死刑」という言葉が、読者においては、「教誨師」にて語られた体験的・具体的事象を指し示す言葉となったのである。このような具体的言語使用を経験すると、これまでの抽象的言語使用と、衝突を起こさざるを得ない。この衝突が、器官なき言語を生成したのである。

この変化を、「抽象的ノリ」から「具体的ノリ」への変化と見ることもできよう。しかし、この「ノリ」について、もう少し考えてみたい。

記号論者パースは、記号を以下の3つに分類している。
1)明確な抽象的体系を持ち、そうした体系から対象を指標する記号「シンボル」(例えば言語と言及指示対象※)。
2)体系化されてはいないが、具体的な反復や慣習が対象を指標する記号「インデックス」(「煙」と「火」の関係)。
3)類似性をもとに対象を指標する記号である「アイコン」(「石」と「石」の関係)
※厳密に言えば、言語と言及指示対象は、indexicalな関係を持つ。例えば、水は、実験室では純粋(H2O)、飲み会では水割り用の割水、帰宅後の家では水道水など、様々な言及指示対象を持つ。H. パットナムの議論を参照のこと。

教誨師を読んだあとの「死刑」の器官なき言語化は、以上のパースの議論を踏まえるならば、「シンボル的ノリ」による言語使用から、「インデックス的ノリ」による言語使用によって導かれたと言うことはできないだろうか。つまり、「ノリ」とは、対象を指標する際の領域の違いとは言えないだろうか。

言語人類学者シルヴァステインは、パースの議論(およびパースの議論を踏襲したヤコブソンの議論)に基づき、記号を、特定の中心点から対象が指標される現象であると捉えた。そして、この中心点を「オリゴ」と呼んだ。

我々は、オリゴを共有しながらコミュニケーションを展開している。しかし、このオリゴが掴めないと、我々は混乱する。「器官なき言語」とは、「オリゴなき言語」と言いかえることができるかもしれない。そして、オリゴを見失ったとき、我々は、再度そのオリゴをつかめるように努力する。シルヴァステインはこうした過程を「メタプラグマティクス」と呼んだが、オリゴなき言語を「器官なき言語」と呼ぶのであれば、千葉のいう「勉強」とはまさにメタプラグマティックな過程であるといえよう。

また、僕が気になっているのは、オリゴが位置づく場所の具体性/抽象性である。「教誨師」では、教誨師の体験という、極めて具体的な位置がオリゴとなり、「死刑」という言葉が指標された。その一方、我々は「死刑」を、「ひどい犯罪を犯した者の刑罰」という抽象的なシンボル体系を「オリゴ」として指標することもできる。この違い衝突した結果、オリゴが不在となり、器官なき言語が作り出されたのだ。

僕は研究でインタビューをすることがあるのだが、抽象的な話が続くなかで、不意に、その人の体験性に基づいた言葉が紡がれ、その話をもっと聞きたくなることがある。あるいは、他者の研究発表を聞いている際、なにか宙に浮いているような言葉と出会い、そのことを質問したくなることがある。こういうときは、その人のこれまでの研究経験(どのような師匠筋に教わってきたかとか)など、具体的な体験が、含みこまれていることが多い。
これらは、オリゴが不在となった結果、それについて聞きたくなる事例といえるだろう。

「インデックス的ノリ」が「シンボル的ノリ」とぶつかり、オリゴが消失し、メタプラグマティクス=勉強が始まる。もちろん、シンボル的ノリからシンボル的ノリに移行することもあるのかもしれないし、結局落ち着く場所はシンボル的ノリな場合がほとんどだ。しかし、千葉が提案した「欲望年表」などの手続きを踏まえるなら、やはり勉強を行うに当たって「インデックス的ノリ」の位置が重要になるように思われる。「教誨師」の事例からもそのように言えそうだ。また、ここでは詳述しないが、対話的な学びと言われる分野においても、以上のオリゴをめぐる実践が繰り広げられているように感じる。よって、今後、この「インデックス的ノリ」がどのような形で勉強過程に挿入されるのかを具体的に検討していくことを課題としたい。

Pomerantz, A. (1980). Telling my side:“Limited access’ as a “fishing” device. Sociological inquiry, 50(3‐4), 186-198.


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