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自分の中の陰と陽が統合するとき(後編)

何かを感じ始めるとそのアンテナは感度を増し、必要なできごとをキャッチするようになるんですね。前回何かを感じ始めたわたしの感性は、またまた魂を揺さぶられるできごとがありました。

先日、入江富美子監督のドキュメンタリー映画全3作品が期間限定で公開されていたので、久しぶりに拝見しました。
知っているはずの内容が、また違って感じられました。自分のその時の状態や感性の成長度合いで何を感じるかが変わってくる、ドキュメンタリー映画の醍醐味はそこにあると思います。
(無料公開の期間は終了していますが、オンデマンドで引き続き視聴できます。)

『1/4の奇跡~本当のことだから~』
『光彩~ひかり~の奇跡~』
『天から見れば』

どの作品も素晴らしくて。
素晴らしいいう言葉では表現が稚拙すぎるかもしれません。今生きている奇跡が心にあたたかく染み渡ってくる作品だと思います。
3本続けて拝見しました。3本目の『天から見れば』が始まったときには、画面の前で合掌をしている自分がいました。

『天から見れば』
**2012年NY国連本部での「世界障害者デー」イベント上映作品**
少年時代に事故で両手を失い、絶望の淵にあった南正文少年を救ったのは…「生まれ変わってもまた手のない私でありたい」という順教尼の生き様だった。順教尼の著した本『無手の法悦(しあわせ)』を読んで心をわしづかみにされた、と語る入江富美子監督が渾身の力を込めた第3作。

映画の冒頭は、和歌山県の高野山にある順教尼の石碑の映像。数年前に高野山を訪れたとき、わたしは確かにその石碑の前を通ったことを思い出しました。
この映画をそれ以前に拝見していたのに、高野山を訪れたときには思い出さなかった。思い出さなかった自分を責める気持ちもありながら、3本目を見続けました。

順教尼の生涯は、こちらを

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ーーー舞に精進していた10代のころ、両腕を切断される事件に巻き込まれた順教尼。40代で仏道の門を叩く。
その生き様には心を打たれる。
赦すこと、人の業、巡る縁、生きるとは?
多くの問いを、映画を見る側に与えられた。
弟子にしてほしいと来る者には、
「両手を縛り、自分の力ではどうすることもできない状態で暮らしてみるのです。そこまで見ようとして、何の力によってわたしたちが生かされているのか突き止めてみるのです。」そう説いた。ーーー

「両手がなかったらどうなると思う?」

ふと、おりひめ講座(前編)でM先生から聞かれた問いが思い出されました。

毎日当たり前のように手を使っています。文字を打っている今もそう。
ご飯を作るとき、食べるとき、出かけるとき、着替えるとき、誰かに触れるとき、合掌するとき、一日の中で数えきれないくらい手は動いていますね。当たり前すぎて、また忘れてしまうところでした。

感性が研ぎ澄まされているときは、必要な過去も思い出すようで、数年前にバリ島へ行ったときに、バリアンから言われた言葉も思い出しました。

「あなたは、前回の人生では与えることをしなかったから、だから今回もう一度生まれてきました。」

わたしは、また前回と同じ人生を歩もうとしていたように感じます。この今があるのは、するべきことがあるから。
「手が大きいね」と言われ続けたわたしの手は、どこかで役立つことができる日を待っている。

自分の中の陰が陽が統合して、再生し、かごめの中から飛び出そうとしているのを感じています。

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