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高野悦子20歳の原点を読みながら。深夜の殴り書き

矛盾している、と感じた時なにかと突っつきたくなってしまう。
読み物や書き物に関しては、矛盾そのものというより、矛盾を指摘されないように保険をかけた意図が読み取れる文章が嫌い。他人の文章に対しても、自分の文章に対しても、なにかを守ろうとして嘘をついてるんじゃないかと考えることが多い。こうして書いてみると分かるけれども、私は基本的に性格が悪い。なんというか、ずっと自分のことも他人のことも許せないのかもしれない。
性格のことはさておき、とにかく矛盾を他人に指摘されないように取り繕う態度が好きでは無い。言い切ればいいものを言い切らない。具体的にどんな物言いのことか例をあげるのは難しいんだけど、そういう文章はとにかく口説い。そして何よりうんざりするのが、自分の書く文章がまさにそんな感じだということだ。書きながら点検。できるだけ素直に書き上げたつもりの文章でも、まずはやはり突っつかれたくない。矛盾していないか異常に気になる。
他人の文章を読むときにもそんなことがものさしになる。やたらと疑り深い自分が、行間に邪魔な合いの手を入れ続けてうるさい。そして洗練されたいわゆる一貫性のある文章を読んだときには、素直な感動のあとに、どうして自分はこういう文章が書けないのかという劣等の念で頭が痛くなる。
性格のことをさておけない気がしてくる。
読み手の顔なんて知らないんだし、知らないならば存在しないも同然なんじゃないか。
自分らしく書けばいいものをどうして?
自意識過剰すぎるために自分がものを書く時の立ち位置がわからない。自分のからだをゆうに飛び越えて、どこまでも自意識が及んでしまうので自己というものを失い続けてきた気がする。書く時だけではない。生活のなかのどんな場面でも、決まってそれらしい振る舞いというのがあると信じていて、自分自身の振る舞いががそれと矛盾することが恐ろしい。だから私は私の振る舞いを自分で決定するというよりかは、周囲が整えるままに自らの輪郭を変えているように思える。まず、こういう自分が好きではない。しかし、こういう風にしか自分を守ることができなかった。自分が上手くやっている(上手に演じている)ように思えると、ひとまず安心する。それから、それから、その場に相応しく振舞っている誰かの内心にある悪意だったり不平不満だったりのことを考える。それに関与しているのを妄想して、その場から逃げたいような気分になる。いつからこんなに人の内心に過敏になっているのかは分からない。ただ、自分がそうだから、相手もそれをしているという疑いが自然と生まれている、というこの因果は確かである。一通り繕ったり疑ったりをしたあとに、私か1番こわい、と思うのは、演じるということがそもそも必要のない、自己というものをよく知っている人と相対することだ。そういう人には私の演技じみた行動の何もかもを見透かされて、嘲笑の眼差しを向けられるんじゃないかと思う。相手は自分の知らない世界の秘密を知っているんじゃないかと想像する。恥ずかしくなってますます逃げ出したくなるし、自己嫌悪の負の感情をどこかにぶつけたくなる。


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