vol.1 漂流

 

 2021年5月2日。私は気がついたら京浜急行線の終着地点、三崎口駅まで来ていた。時刻は17時を回っていた。日が傾き出しており、海からの強風に煽られた私は、身体の熱がどんどん奪われるのを感じた。上着を羽織って来なかったのもそうだが、自分の不可解すぎる行動に呆れ果てた。


 三崎口に来る前、私は何をしていたのかというと、駅前のスーパーに買い出しをしていた。いつもなら陳列している商品を眺めながら「今日の夕飯は何にしようかな」とか、「春キャベツ安いけど一人じゃ食べきれないな」なんて、どこぞの主婦みたいなことを考えているのだが、その日は違った。
 買いたいものも、買わなくちゃいけないものもわからなくなり、野菜を見ても肉を見ても魅力的に思えず、放心状態でスーパーを歩いていた。唯一かごの中に入れられたのが110円の6枚切り食パンで、今日はもう面倒くさいから夕飯は惣菜にでもしようかな、そんなことを思い立ったときだった。
 私は目に涙を浮かべていた。一つ、二つ、ほろほろと目から溢れ出した。あれ。おかしいな。いつもならスーパーで楽しく買い物をしているはずなのに。昨日からまともな精神状態でなかったことを自覚していたからなのか、ここにいてはまずい、と直感で思った。するとすぐさま、体を何者かに乗っ取られたかのようにかごの中の食パンを売り場に戻し、かごもスーパーの入り口において、急いで駅へ向かった。


 昨日の夜、母親に大泣きしながら電話したときに、「そんなに辛いなら一回帰って来なさい。」と言われたこともあって、実家に帰ることも頭によぎった。しかし、私は実家にすら帰りたくないと思った。横浜駅で電車を乗り換えるために京急線のホームにたった時、電光掲示板の一番上に表示されていた「快特 三崎口」行に乗りたくなり、列の最後尾に立って吸い込まれるかのように電車の中に乗り込んだ。
 高いマンションが林立する中心部から住宅地が広がる郊外へと景色が変わっていくなか、「着いたら海鮮丼でも食べて終電までには帰ろうかな」と思い立ち、店を調べようとスマホを取り出してネットを開いた。ところが検索エンジンには「三浦 ホテル」と入れていた。そうか。私、今日は帰りたくないんだな、と思いその気持ちに素直に従うことにした。


 三崎口駅周辺は驚くほど何もないため、私は寒さをこらえながら、三崎港へ向かうバスに乗り込んだ。バスの乗客はまばらで、みなリュックサックサイズの荷物を抱えて座っていた。その中で、私一人だけが、最低限の貴重品を入れたショルダーバックを肩にかけている。思えば一泊するには荷物が少なすぎるだろ、と自分にツッコミを入れて、二人掛けの席に乱暴に座ると、バスが動き出した。
 おおよそ30分バスに揺られていると、三崎港まで辿り着いた。太陽もだいぶ沈んでいて、あたりは夜を迎える準備が始まっているのがわかった。三崎口駅にいた時よりも風が強く、さらに体感温度が下がった。海鮮料理をうたう飲食店が並ぶ道を通りかかり、「いらっしゃいませ。いかがですか。」と店の女将に声をかけられたが、ぺこりと頭を下げて一度通り過ぎた。

 電車に乗っていたときにスマホで検索して引っかかった宿泊施設を目指そうとあゆみを進めていたが、暗闇の中強風が吹きつけてくる港におぞましさを感じた。街灯もまばらで人通りも全くなく、「本当にこの先に宿泊施設なんてあるの?」と私は疑念を払拭できなかった。迷って帰って来られなくなったら元も子もないと思い、先ほど声をかけられた女将に聞いてみようと道を引き返した。


 店の方に戻ると、女将と一緒に板前も立っていた。「どうぞ、いかがですか。」と店の宣伝をする二人をよそに、私はか細い声で「この近くに泊れる場所はありますか。」と聞いた。すると女将が素早く、「どっか泊れる場所あるっけ?」と板前に聞き、板前も心当たりのある人を知っているのか、「ちょっと聞いてみるので待っていてください。」と一度姿を消した。
 しばらくすると板前が、泊れる場所を二軒教えてくれた。そのうちの一軒はネットで検索をかけたところだった。「スマホでマップ検索すればわかると思いますよ。」と言われ、若者のくせになぜこういうときに文明の利器を使用しないのだ、と少々恥ずかしい気持ちになった。(まあ、充電器を持ち合わせていなかったこともあって、できるだけバッテリーを消費しないようにしようとしていた、ということもある。)


 「わかりました。ありがとうございます。」そう言って立ち去ろうとした私に、「行ってらっしゃい。お気をつけて。」と二人が声をかけてくれた。私は一礼してその場を離れた。女将と板前が、弱々しい立ち振る舞いの私を見て少し心配そうな視線を送っていたのを背中で感じながら。
 来た道を戻り、スマホでマップを開いて、宿泊施設名で検索をかけた。すると自分で歩いてきた道のもうすぐ先のところにその建物はあった。そこは小学校の修学旅行や部活の合宿で来るような雰囲気の施設であり、一度も行ったことがないのにどこか懐かしさを感じた。


 フロントで空き室を確認したところ、一部屋空いているということで、今日はそこで一晩を過ごすことにした。部屋の鍵を開けて中に入ると、タバコの煙を吸ったやや年季の入った畳のにおいがした。一人で泊まるには手に余るような畳の一室は、私の心に小さな安らぎを与えてくれた。

続く

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