メンヘラがコミュ力を即座にあげるシンプルな方法

とタイトルには書いたが、コミュ力は以下の記事で論じた通り純粋なコミュニケーション能力だけではなく「他者に配慮を要求出来る或いは無遠慮に振る舞っても許される権力」「性差や社会的地位に基づくバイアス」等に影響される要素なので、ここで記すのは正確には「他者からの印象を改善したり仲を深める方法」になる。

さて他者からの印象を良くする方法として1般的によく唱えられるのは自信をつける事だろう。そのメカニズムは大体以下のように言われる。自信がある人間は他者の信頼を得やすく、また積極的にコミニケーションも取りやすい。そしてコミュニケーションが上手く行くから自信がつき、更にコミュニケーションが上手くいくようになる。1方で自信がない人間は他者に不安を与えやすく、また積極的に他者とコミュニケーション取れないので人間関係を失敗しやすい。そして人間関係で失敗するので更に自信がなくなる…みたいな感じだ。

特にメンヘラは「自信を持て!」と言われやすい。というよりメンヘラに説教するタイプのメンヘラは確で自信満々に「自信を持て!」とアドバイスしてくる。これはもう客観的統計云々抜きにして断言出来る。何なら支援者の方からそういわれた方も珍しくないだろう。とにかくメンヘラは人間関係に依らず、何か上手く行かない原因として「自信がない」を指摘されやすい。

そして実際に自信がある人間は「私は人間関係上手くやってるコミュ充だ」と自覚を持っているケースが多い。例えばカルフォルニア大学で行われた自信と人間関係の研究において、研究者は人間関係上手くやってるコミュ充として以下の5要素を定義した。

・対人トラブルに上手く対処出来るか?
・困ってる人間の感情ケアが出来るか?
・包み隠さず相手に自己表現出来るか?
・親しい相手であれ反対意見を表明出来るか?
・新しい友達を作れるか?

これらの要素は概ね大多数にとっての「人間関係を上手く回すコミュ充」のイメージに沿ってると言えるだろう。そして参加者に「貴方はどの程度コミュ力に自信があるか?」を調査し、そのうえで全員に5つの要素を自己採点させた。その結果、自分に自信がある人間は5つの要素全てで高い得点を獲得していた。要は自分に自信がある人間は「私は上手く人間関係やれるコミュ充だ」と自認しているということだ。

ところが続いて「他者の目から見ても自信のある人間の人間関係は良好か?」を調べたら、これらの得点はガラっと変わったものになる。研究者達は実験参加者の友人知人親戚へのインタビューを実行したところ「自信のある人間の自己評価と他者評価は全く違う」ことが判明した。具体的には「新しい友達を作れるか?」以外の4要素は自信の有無と全く相関なかったのである。要は自信のある人間は「私は人間関係上手くやれるコミュ充だ」と思い込んでるだけで、実際にはコミュ力があるわけでも人間関係を上手くやれてるわけでもなかったのだ。

このようにやたらと持て囃される自信であるが、最近の研究では物言いがついてる…というよりハッキリ言えば「自信あるのってデメリットじゃね?」みたいな事が示唆され始めている。その先駆けとなった研究をあげるとフロリダ大学のロイ・バウマイスターの論文だ。彼は自信と能力やパフォーマンスにおいて各研究を分析し「全く関係ない」と断定した。自信が高くても仕事のパフォーマンスは上がらないし、自信ある人間は自信ない人間より魅力的で人間関係上手くいく…という信念に反して長期的に嫌われる傾向にあるし、リーダーシップとの関連性も微妙だし、自信の無さが非行に結び付くと言われてるが実際には微妙な1方で高い自信は虐めっ子と関連があるし、成功者に自信家が多いのは成功して自信がついたからであり因果は逆だし…と自信ある人間に対する1般的なイメージをバッサリ切り捨てる。

そのうえでバウイマスターは自信=コミュ充・成功者のイメージが消えない理由として「自信の高さが持て囃されるのは幾つかの原因が絡み合ってるが、まず自信のある人間が自分の幸福や思考を大袈裟に言いふらしイキるのが大きいんじゃね?そもそも自信ある人間は自己弁護ばかり達者なナルシストが多いしね」と語る。なんていうか身も蓋もない。

https://journals.sagepub.com/doi/full/10.1111/1529-1006.01431

というわけで「自信を持て!」は罠である。また「女性はコミュ力が高いのか?」の記事で書いた通り「他者の気持ちを正確・敏感に察せられるようにしろ」も罠である。その能力と他者にコミュ充判定される事は結び付かない。

正直な話、コミュ充になるのに最もシンプルでコミュ障にとって最高の解決策は「周囲が自分に気を遣いコミュ力不足を補って貰えるような権力者になる」だ。実際に欧米の弱者男性は「権力者…つまり現代社会においては女性になればええんや!」と性転換をし女性になる事も珍しくない。これは「take pink pill」と呼ばれており、redditとか見てみるに劇的に変化した!という人間もそれほど変わらなかった!という人間もいるが、概ね「男性だった時に比べて世界が優しくなった」という意見は1致してる。つまり彼等?彼女?のコミュ力は女性になることにより多少なりとも改善したということだ。

しかしながらそれは人生に不可逆的な影響を及ぼすし、既に女性の方にとっては使えない手だ。そこで私が提案する方法は2つある。尚このテクニックはメンヘラや発達障害人間の方の役に立つだろうが、別に広まったところで効果が薄れるような性質はないので有料エリアはない。(広まったら効果が薄れる類のコミュ力あげというか人間関係円滑法はコチラを参照)

1つは

ミラーリング

これはナンパテクニックで有名なので知ってる方も多いだろう。雑に言えば女性が飲み物を飲む時は自分も飲んだり、女性が「カシスサワーが好き!」と言ったら「俺も!」と返す等、相手の言動を真似する営為だ。実際にこれは性愛に依らず人間関係にプラスの効果を与える事が実証的な研究でも示唆されている。

例えばデューク大学で研究参加者にペアを組ませて簡単なゲームに挑戦させ、その後参加者の外向性を検査したうえでゲームの模様を撮影した動画を分析すると以下の事が判明した。

・外向性が高い参加者ほど他者から信頼されやすい=コミュ力が高い
・コミュ力が高い参加者ほど頻繁に相手の言葉や動作を真似していた

なんでも研究によれば相手からの信頼を獲得しやすい=コミュ力が高い参加者ほど、相手の声のトーンに自分の声のトーンを合わせたり、相手が髪を触ったら自分も髪を触る的な行動をしたという。研究者はこれについて「人間は共通点のある相手には親しみや仲間感覚を覚える。その為コミュ力高い人間は他者からの信頼を得ようとする時、模倣を有効な手段として使いこなす」と分析した。また内向的な人間は当然ダメダメだが希望がないわけではない。何故ならコミュ力の高い人間は「無意識」にこれを行っているからだ。つまり内向的な人間でも意識してこの戦術を駆使すれば1定の成果は得られるし、実際この方法を実践し成果をあげてるナンパ師は珍しくない。

またこの戦術の骨子は模倣ではなく「人間は共通点のある相手には親しみや仲間感覚を覚える」ことにも注意が必要だ。無理に動作を真似なくても場面や状況次第で共通点など幾らでも生まれる。

例えば貴方が東京に住むONE PIECEアンチの高校生として、ある日大阪から転校生がやってきて関西弁で「好きな漫画はONE PIECEや。ほなよろしくな」と自己紹介したら親しみを覚えるだろうか?答えは当然NOだろう。住んでた場所が違うし、言葉もやや異なるし、趣味嗜好に至っては真逆の方向だ。転校生と貴方の共通点は皆無と言っていい。そんな彼と貴方は高校生活を通じて1度も喋る事はなく、卒業後は同窓会まで顔を合わせる事もなく、また顔を合わせても「そういえばこんな奴もいたな~」と思うぐらいだ。

しかし貴方がトラックに跳ねられてナメック星に異世界転生したとしたらどうだろうか?周囲の人間は皆緑色で頭に触覚が生えてるし、話す言語はナメック語だし、食事は水しかとらず、いつもアジッサの木なんかを植えている。親切なナメック聖人は貴方に食料を提供しナメック語も教えてくれるので生存には困らないが、自分と共通点のない人間に囲まれる貴方の孤独感は半端ないことだろう。しかしそんなナメック星に大阪の転校生がトラックに跳ねられて異世界転生してきたらどうだろうか?顔を合わせた瞬間、貴方も転校生も「あー!」とテンション上がりまくりだ。そして地球での思い出話に花を咲かせ、転校生に「ONE PIECEが結局何なのかは知りたかったなぁ~」と嫌いなONE PIECEの話を振られても、「俺は空島編でリタイア組だけど確かに気になるよな~。多分だけど俺が思うにONE PIECEの正体は…」と盛り上がることだろう。

このように共通点はそれを持たない人間が周囲に多いほど強く親しみや仲間意識を覚えさせる要因として機能する。貴方のクラスにいる人間は全員地球人なので、同じ地球人だからと親しみや仲間意識を覚えることはないが、周囲にナメック星人しかいないナメック星では地球人であることはそれだけで十分な共通点として機能するのだ。

なので相手と周囲の人間にない/少ないニッチな共通点を見つけたら、それをアピールするのも有効な手だ。また共通点は自分から増やしていく事も出来る。浅草の講談師なんか聞きに行くと分かりやすいが、彼等がやってる事は雑に言えば「観客と自分の間にお約束のやり取りを作り、それを繰り返したり裏切ったりする」に尽きる。要は相手との共通知識を作り、その共通知識を再演しているのだ。

例えば貴方が「おはこんばんちわ」という挨拶をし合っていた親友がスリランカに引っ越してしまい、それから10年間近く会えなかったとして、そんな親友と町中で偶然出会い「おはこんばんちわ」と言われたら貴方の胸に熱いものがこみ上げてくるはずである。ここまで極端な話じゃなくても、例えば毎朝普通に「おはよー」「おはよー」と挨拶しあうだけでも人間は相手に親しみや仲間意識を覚える。左記はそこに「周囲の人間にはない/少ない共通点という要素が乗ると点数が跳ねる」というだけの話だ。

要はこうした相手と自分の共通点を意識し、少し真似したり繰り返したりするだけで、相手に対してそれなりの親しみや仲間意識を抱かせることが可能なのだ。これはメンヘラにとっても比較的ハードルが低く、また実践しやすい社交術と言えるのではないだろうか?

自己開示

と言われてもメンヘラは戸惑うだろう。何故ならメンヘラは自己開示が苦手…というより臨機応変に自分を出したり抑えたりといった出力調整が苦手で、大体は「心を許せる相手には丸裸の自分をさらけ出すが、心を許せない相手には心の扉を完全シャットアウトして無難な/表層的な対応に終始する」の2択しかない。相手に自分を曝け出し全てを期待し過ぎて負担をかけて人間関係潰したり、表層的なやり取りしか出来ないが故にコミュニケーションが深まらず日を追うごとに相手となんか気まずくなり自然とフェードアウト…がメンヘラの人間関係黄金パターンだ。

自己開示しなければ他者は貴方がどのような人間か分からないので、親しみを持ち辛いし信頼もし難い。勿論自己開示出来ないのは「それよって相手に拒否されたり嫌われたら…」と不安に基づくものだろう。換言すればメンヘラは今この瞬間の危険を避ける為に、確実な破滅の未来に向かってしまうのだ。更に悪い事にこれはジレンマがある。何故なら「信頼して受け入れて貰えると分かるまで危険を冒して打ち明けられないが、そもそも打ち明けないと相手が信頼に値するかどうか分からない」からだ。メンヘラが妙な試し行動や極端な言動や変な嘘をつくのは、大体はこのジレンマに由来すると言っていい。つまり相手を信頼し安全性を構築する為にも多少の自己開示はどうしても必要とされてしまうのである。

そこで私は具体的にどの程度自己開示すれば良いのか?を調べた。結論から言うと見つからなかった。しかしながら何気にとったビジネス本「Connect」にはこんな記述があった。「どれくらい自己開示していいか分からない場合は15%自己開示すればいいよ」と。

この15%という数字は正確な数字ではない。要はコンフォートゾーン…自分にとって安心出来る居心地の良いゾーン…から少しだけ飛び出てみるぞ!と思ったうえで会話すると、自分もそこまで不安や恐怖心を感じず、また相手にも引かれる心配はないということらしい。実際「ちょっとだけ冒険してみるぞ!」と思って自己開示すると、相手に好印象を与えやすいみたいなデータはちょくちょく見つかった。

https://journals.sagepub.com/doi/full/10.1177/0265407512459033#body-ref-bibr7-0265407512459033

https://journals.sagepub.com/doi/full/10.1177/0265407512459033#body-ref-bibr44-0265407512459033

なので「少しだけと思って冒険する意気込みで自己開示してみる」という手法には、それなりの有効性があること自体は間違いない。しかしながら肝心なのは「だからその少しだけって具体的にはどの程度!?」というところだろう。これに関しては明確な答えを出せないので、とりあえずスタンフォード大学お墨付きの15%でいいんじゃね?と言いたいところなのだが、これに対する解決策はある。積極的或いは能動的に自己開示する事に抵抗があるのならば受動的に自己開示すればいいのだ。つまり相手の話を聞く時に感情を示す。相手の投げたボールを返す際はなるべくそこに感情をのせるようにするのだ。

例えば相手が「異次元フェス アイドルマスター☆♥ラブライブ!歌合戦に行ってきた」と話題を振ってきたとしよう。それに対して「どんな感じでしたか?」と返せば会話は繋がるだろうが、それは単なる繋ぎであり貴方自身の情報量は皆無だ。しかしながら「羨ましい!どんな感じでしたか?」と返せば、貴方は相手に自分の事を伝えた事になる。相手は貴方がラブライブかアイドマルマスター又は両方に興味がある事やライブに参加したい欲がある事を知る事が出来るし、ちょっとした優越感も与えて気を良くする事も出来る。このようにシンプルに相手の投げてきたボールにちょっとした「それに対して自分はどんな感情を抱いたか?」を乗せるだけでも、コミニュケーションの深まりは全く違ってくるのだ。

これに慣れてきたら「ライブの抽選落ちました。悔しいです」と自分から投げるボールに感情を乗せてみるのもいいだろう。これは少しだけ冒険するぞ!と思って自己開示する…のが難しいメンヘラでも比較的ハードルが低く、また実践しやすい社交術と言えるのではないだろうか?

最後に身も蓋もない話をすると、人間と親しい関係になるのに1番必要なモノは1緒にいる時間だ。これは研究とか貼る間でもない当たり前過ぎる話である、因みに人間は単純接触効果と言って1緒にいるだけでも、その相手に親近感や仲間意識を覚えるものである。1緒に長い時間を過ごせば仲は良くなる…というのが身も蓋もない現実だ。

ここで我々がやってしまいがちな失敗は「退屈を恐れる」だ。我々は自己肯定感の低さから相手に何らかの価値を示そうと、例えば雑談にしてもトリビアや洒落や鋭い見解を提供しようとしてしまう。が、当然そんな事をすれば滑りやすくなるのは勿論、いずれネタは尽きるし、自分の得意な分野だと何も話せなくなってしまう。ここで気付いて欲しいのは、貴方がそうであるように他者もまた貴方に対して常に面白く楽しい話を提供してるわけではないことだ。

友達、知人、仲間、家族…そういった他者は貴方に対して退屈な話をする時もあるし、時には滑った話もして貴方を萎えさせたりもしてしまう。だからといって他者が重要な…尊重しなくていい人間にならないように、貴方のそういった営為をしてしまう事も他者にとって貴方を尊重しなくていい理由にはなりはしない。特殊な場合を除き、人間関係は常に見返りを求め合うものではないのだ。

要するに人間関係に最もクリティカルに左右する要素は「退屈との付き合い方」なのだ。極論から言えば退屈を嫌う人間に親しい人間は出来辛い。人間関係は投資のようなものであり、直ぐ元がとれるようなものでも宝くじでもないので短期間で見た場合はコスパが非常に悪い営為だ。例えば友達を作る際に(極端なプレデターは例外として)「相手と遊ぶ約束をしたとして相手は私の労力に見合う価値をくれるか?確実性はどれくらいか?その時間で他にもっと生産的な営為が出来るのではないだろうか?」みたいな事をイチイチ気にしていたら友達などは出来ないままなのである。

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