何故虐待・子殺しママの暴走は止まらないのか?

ママによる子供の虐待事件が起きる度に虐待ママへも無数の擁護・共感が寄せられる光景は、もうX(旧Twitter)の風物詩だ。彼/彼女達は事件が起きる度に口にする文句は凡そこんな感じだ。「このママに必要なのは刑罰ではなく保護や支援!」「困難に耐えてよく頑張った!感動した!」「パパは何処行った!?」等と、虐待ママを耐えがたい困難により止む無く子供を殴ったり殺したりしてしまった可哀想な被害者として扱うポストが無限にされ、その内幾つかのポストは多くの共感を得て何万というイイネを貰う。マスコミや裁判所もそれに同調し、ママに共感と同情を示す事も珍しくない。

勿論「犯罪をしてしまう人間の背景には情状酌量の余地がある切迫した事情があるのではないか?」というのは至極真っ当な意見…のように思える。しかしながら、このnoteを読むような皆様なら日本社会において、そのようなロジックが適用される性別と決してされない性別があるのはご存じの通りだ。このような性善説に基づく理解と共感は専ら特定の属性だけに与えられる光景を見てると、彼等はそのロジックの意味を理解して言ってるのではなく「ここでこう言っておけば餌…承認や道徳的地位…が貰える」とだけ理解し、鳴き声をあげてると解釈する他はない。端的に言えば上記の言説は弱者に対する同情ではなく、強者への媚び諂いである。

ガチのマジで本当の弱者に対して共感や理解を示そうとするとどうなるか?の例

と、このような話をしたら恐らく次のように反論する方もいるだろう。「いや女性は男尊女卑社会において弱者であり、従って強者である男性のそれとは同列に扱えない。ママの虐待や殺人が同情的に扱われるのは、やはりママがそのような凶行に及ぶ原因として社会構造における不利があるからだ」と。ここでは本当に女性が社会において弱者なのか?不利に扱われているか?といった問題は置いておき、「女性は支援なり保護があれば犯罪…虐待や子殺しをしなくなるのか?」といった命題について考える。

ママの子殺しの原因は支援不足が原因なのか?

という説は凶悪犯罪が現象の一途を辿っている日本において、ママの子殺しはさほど減ってないという統計によって否定される。例えば日本において殺人事件は1954年にピークの3081件を迎えて以降、1貫して減少傾向にあり1987年にはピークの半分を下回り、2021年には874件にまで減っている。

https://chuokoron.jp/society/121677_2.html

1方で子殺しはずっと横這いだ。というより少子化を考慮すれば人口辺りの件数は増加してるとさえ言える。日本において殺人事件が減り、世の中が安全でクリーンになってるにも関わらず、家庭という密室空間におけるママの危険度はまるで変ってない(悪化すらしてる)のだ。

https://www.orangeribbon.jp/about/child/data.php

これに対して「確かに社会全体は良くなった。それにより殺人事件もかなり減った。しかしながらママの境遇だけは良くなっておらず、それが子殺しママ事件横這いの原因ではないか?」と反論する方もいるだろう。これには保育園の数とか子育て支援の拡充とかの数字を出すことは出来る。しかしながら当然「客観的数字と体感的数字は必ずしも1致しない」という問題はあり、またそれこそが虐待・子殺しママ問題の議論をややこしくしてる原因だ。

例えば2016年にはてな匿名ダイアリーに投稿された待機児童問題を批判する内容の記事が多いにバズり「保育園落ちた日本死ね!!!」騒動として、全国的な運動へと発展した。

何なんだよ日本。
一億総活躍社会じゃねーのかよ。
昨日見事に保育園落ちたわ。
どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。
子供を産んで子育てして社会に出て働いて税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ?
何が少子化だよクソ。
子供産んだはいいけど希望通りに保育園に預けるのほぼ無理だからwって言ってて子供産むやつなんかいねーよ。
不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから保育園増やせよ。
オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ。
エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ。
有名なデザイナーに払う金あるなら保育園作れよ。
どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ。
ふざけんな日本。
保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。
保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。
国が子供産ませないでどうすんだよ。
金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ。
不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ。
まじいい加減にしろ日本。

https://anond.hatelabo.jp/20160215171759

働いて稼ぎたいのに認可保育園落ちたママの痛切な叫びは同じような境遇の女性や、ある種の被害者感情を常に持つ女性、またそういった被害性を武器に暴れまわりたい女性、それを利用したい活動家や政治家等の共感を広く呼んだ…が、まず大前提としてこの時点でも認可保育園の数は増え続けていた。少子化の時代にである。

https://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-11907000-Koyoukintoujidoukateikyoku-Hoikuka/0000022681.pdf

厚生労働省によれば平成18年から25年の間に認可保育園の数も利用児童も10%近く増加している。これに対して「死ね」とまで言うのは少し酷というものだろう。また令和5年には待機児童問題は87%の市町村で待機児童0、待機児童数50人以上の自治体は6件まで減っている。今現在待機児童問題は殆ど解決し、またそれに伴う形で育児環境は1貫して向上し続けてると言えるだろう。

https://www.cfa.go.jp/assets/contents/node/basic_page/field_ref_resources/f699fe5b-bf3d-46b1-8028-c5f450718d1a/8e86768c/20230901_policies_hoiku_torimatome_r5_

しかしながら重要なのは、こうした客観的ファクターにも関わらず多くの女性が「日本はますます育児しにくくママに厳しい環境になってる」と信じていることだ。虐待・子殺しママを擁護する人間達もこの前提を信じてるからこそだろう。

インターネットは暇人が有利になる

かつて5chが2chだった頃、掲示板やネットゲームは専業主婦、ニート、無職が天下を取っていた。そしてスマホの普及後は性風俗産業従事者も頭角を示すようになっている。彼等の共通点は言う間でもなく「暇人」な事だ。要はインターネットをする時間が沢山ある。こういうと「専業主婦が暇なんてとんでもない!家事は24時間フルタイムの労働だ!」と主張される方がいるかもしれないが、客観的な数字を出すと総務省が平成23年に行った「社会生活基本調査」によれば、育児を除く家事の平均時間は3〜3.5時間程度である。

https://www.stat.go.jp/data/shakai/2011/pdf/houdou3.pdf

1日3時間タスクに従事する人間の事を忙しいとは表現出来ないだろう。また育児の時間は当然子供の年齢により大きく変わるが平成28年の社会生活調査によれば平均で25分、6歳未満の子供がいる家庭で3時間45分だ。つまり専業主婦は子供が小学生にあがるまではパート労働者程度には忙しいと表現出来るが、それ以降はまぁ…。

というより「専業主婦は忙しい!」論に対して、こんな疑問を抱いた方は多いだろう。「専業主婦が本当に忙しいかどうかは別にして、何故理論上はそれ以上に忙しいはずの共働き/兼業主婦の方は専業主婦のように騒がないのか?」と。その答えの1つが「ネットでは暇人=ネットに投稿しまくれる層の声がデカくなる」だが、それにしても「フルタイム労働に家事に育児に忙しい毎日を送り尚且つ夫の協力も得られず過酷なワンオペ家庭を強いられてる」声が聞こえないのは不自然だ。勿論そもそも日本は共働きといえども妻側はパート労働が主であり、フルタイム労働で働く妻は多くないという事情もある。しかしながら、これはどうも客観的にも確認されてる現象であり、同調査の統計を見る限りなんと「専業主婦が家事育児に苦しむ1方、共働き妻はそこまで苦しまず家事育児をこなしてる」という傾向がハッキリ見てとれる。



また厚生労働省は各調査をまとめて専業主婦・兼業主婦の育児負担に関するグラフを作成したが、

https://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/06/dl/s0608-11c_0017.pdf

注目すべきは専業主婦の方が「自分の自由な時間を持てない」と感じていることだ。専業主婦ほど家事育児に疲弊する…この不可解な現象は「専業主婦と兼業主婦の間にはある種の能力差がある」と解釈すれば途端に解像度の高いものになるだろう。

ニートは支援されればされるほどちょっとした事に疲れるようになる

筑波大学入学当時、私は典型的な5月病に陥っていた。理由は大きく2つ。1つは「国立大学は学費無料」と勘違いしていたら奨学金説明会に連れていかれ現実を突き付けられたこと。もう1つは「将来は日本人がコオロギを鳴かせたり戦わせたりして飽きたら食える社会を作りたい!」と夢を語る友人のキラキラにあてられて、「まぁ国立大学は無料っぽいし何か将来有利になるっぽいから行っとくか」程度で行った自分の浅はかさを実感させられたことだ。

そこで私は何もする気になれず1応講義に出て「将来どっすかなー」とボケーッとし、そのまま大学が終われば何もやらずに友人…コオロギ君の住処に入って寝そべり、お腹が空いたら寝そべったまま手を動かしては引っ掛かったコオロギを食っていた。この頃の私は恐らく1日16時間は寝そべっていたと思う。コオロギ君は「人間が何処までコオロギだけで生きられるか?の研究に協力してくれてありがとう!」と滅茶苦茶感謝し、私はそんな彼のキラキラにあてられてますます5月病は悪化した。

またそんな生活は私の精神構造と身体構造に妙な影響を及ぼす…というより自然と適応していったのだろう。私はコオロギを生きたまま食べる事に何の抵抗もなくなっていたし、ジッと動かず石になりきり口元周辺に来たコオロギを口を開けながら吸い込みで寝そべったまま食べられる生態を身に着けた。「凄い!お前はカエルを通り越してクジラ(水ごと獲物を飲み込み食べる)になった!これが両生類から哺乳類への進化だ!」とコオロギ君は感激してくれたが、そもそも私は最初から哺乳類(人間)だ。

そんなある日、私はコオロギ君に「出かけている時にコオロギの水を代えといて。新しい水と古い水で育ったコオロギの成長や味の違いを調べたい」と頼まれた。なんて事ない頼みだし、そもそも寝そべらせて貰ってるうえに食料を貰ってる身で断る理由はない。私は軽く2つ返事で引き受けた。が、結果として私はコオロギ君の約束を破る事になる。それは私に約束を反故にする気があったり、インシデントが起きたわけではなく、ましてや水替えというタスクが難しかったわけでない。ただただ身体が重かっただけだ。

加えて言えば、直ぐ終わり尚かつ時間指定がないタスク…というのもマズかった。私は直ぐ終わり時間指定もないが故に「今やらなくていっかな~もう少ししたらやろう」を無限に繰り返し、時間が危うくなっても「すぐ終わるしな~」と先延ばし、いよいよヤバクなっても「ヤバイ!やらないと!」と思いこそせよダラダラしてしまった。そして帰ってきたコオロギ君は私の様子を見るや「お前大丈夫か?コオロギしか食わないとやっぱり何処かヤバクなる?」と本気で心配する。それは私が客観的には何もやってなかったにも関わらず「やらなきゃ」という精神的負担のみで、滅茶苦茶疲れて限界な顔を浮かべていたからだ。繰り返すが1日「水替えやらなきゃな~」と思いながらゴロゴロするだけで私は心身ともに疲労困憊してしまっていた。

そして次の日は、その反省から早めに水替えをやったのだが1回やっただけで滅茶苦茶重労働に感じ、その日はそれだけで終わってしまった。なんというか1日に1ターンしか行動出来ず、何かやったらその時点で行動出来なくなってしまう感じだ。そこで私はなるべくいっぺんに連続してタスクを行うことで解決し、その負担に慣れる事によって徐々にターン数が増えていき、気が付いたらターン数制限はなくなっていた。

専業主婦が疲弊する理由とこの「ニートは急に働き出すとちょっとしたバイトでも重労働に感じる」現象は無関係ではないだろう。また自由時間と裁量権があるが故に「メリハリ」がなくなり、緊張感が変に続いたり続かなかったりするのも原因の1つだろう。要は「楽なのに疲れる」ではなく「楽だから疲れる」のだ。これは専業主婦によらない現象であり、コロナ禍においてはリモートワークという形でそれを実感した方も多いだろう。誰にも監視されず自分のペースと場所で仕事が出来るからこそ、仕事が終わっても緊張感がとれなかったり、逆に仕事中に緊張感を持続できない方が続出し「リモートワークは辛い」という声がこだました。

勿論リモートワークで快適で「ずっとリモートワークがいい!」という人間も大勢いた。恐らく自己管理がしっかり出来て、私生活にもメリハリをつけられる人間なのだろう。しかしながらそうでない人間にとって、自由とは「自分で決めて自分で行い尚且つ自分で自分を監視してケツを叩かなければならない」という高難易度の姿勢を求められる概念である。端的に言えば自己管理と自己責任がとれない人間は自由の重みに潰される

自由の重みはより弱き者へ

家庭運営能力が低く指示等が下手で適切に役割分担させられないママが、家族が自分の思い通りに動かない事にイライラして「自分でそれぐらい考えなさい!」と「そのやり方は駄目!」というダブルバインドを連発し、終いには「誰も私の事を助けてくれない!私はこんなに頑張ってるのに!」と被害者意識を爆発させヒステリーを起こす…このnoteを読むような方にとっては身に覚えがある光景だろう。典型的な自由の重みに潰される人間だ。

こういった自由の重みに耐えられない人間がやる行動は大きく2つに別れる。1つはスピリチュアルに走り「人間や運命の動きには何か然るべき因果律があり、それはある方法でコントロール可能である」として、自分より上のナニかに縋る事で判断責任を軽くしようとする行動だ。これは経営者や自営業者等がスピリチュアルやコンサルに縋りやすいのと同じ理由であり、要は責任の外注である。

そしてもう1つはひたすら根性論でなんとかしようとする事だ。とにかく「元気があれば何でも出来る」とばかりに、熱意や当事者意識を押し付け、自分の思い通りに物事が運ばないと「貴方の熱意や当事者意識が足りないせい」としてしばく。これは自分を被害者と位置付ける事で責任の所在を相手に押し付ける営為だ。後者は所謂ブラック企業と呼ばれる組織で多く見られる構造であるが、皆様がご存じの通りブラック企業の社長は大抵「私は社員を愛してる」と自認しており、また社員も愛社精神に満ちてる場合が珍しくない。そしてこのような構造だからこそパワハラ等も長時間労働も温存され、労災が起きるまで問題が表面化することもないのであるが、子殺しママの家庭も同じことが起こってる。

虐待親の典型的な特徴の1つは「自分は悪い事をしたと思ってない」ことだ。むしろ彼女達は往々にして「私は子供を愛し誠心誠意養育してきた」と思っており、虐待等と言われる筋合いは全くないと考えている。また多少の自覚があっても「たまに上手く行かない事があってカッとなってしまう事もあったが、子供はちゃんと許してくれたし私も謝った」と爽やかエピソードに昇華させてるママも珍しくない…というか子殺しするママの典型的な認知であり、更に言えば我が国の司法も継続的虐待の証拠があっても「うんうんその通りだね。君は本当は良いママなんだね」と言ってしまう事も珍しくない…というかデフォである。

「今日、我々は裁く側と裁かれる側に分かれましたが、1人で子育てを頑張ろうという気持ちは疑っていません。尊い命が失われる取り返しのつかない結果となった。一つは、自分だけで判断し適切な対処ができなくなったと思う。周囲の人に頼る、もっと言えば甘えることも必要だったのではないか。ほのかちゃんの命が失われなかったのではないか。非常に残念に思う。社会に出るのにはまだ数年かかるが、家族をはじめとした他者との接し方が重要になる。人に頼ったり相談しながら、人生の姿勢を根本的に変えることが必要。1人で出産するような無茶なことはせず、心や体を大切にしてほしい。自分を大事にできないと他者も大事にできない。残された2人のお子さんのためにも、更生の道を歩んで下さい」

https://news.yahoo.co.jp/articles/cb5cfa59998edaac0877c7813ab08e0840dea787

「被告はひざの高さから赤ちゃんをふとんの上に落としたとしているが、重大な結果を生じさせる危険をはらんだもので、犯行は軽微などと言えない」
「被告は双子を出産したあと夫から育児の協力を得られず、周囲の協力も得にくい環境で精神的にも肉体的にもつらい状態だった。突発的に及んだ犯行で、被告の母親らが協力する姿勢を見せていることなどから社会で立ち直るべきだ」

https://www3.nhk.or.jp/lnews/saitama/20230802/1100017258.html

虐待の末に子供を殺す…という解釈の余地がない状況でも、ママ及び司法の認知は「1生懸命に子供に愛情を注ぎ育児を頑張ってきたママ」なのだ。何故このような認知に及ぶか?は極めて単純。最大の理由は死人に口なし。

女性の司法割引

上記の話で「貴方が挙げた例は確かに主張を裏付けるものではるが、あくまで個別事例である。個別事例を通じてマクロの傾向を断言するのは乱暴ではないか?」と思った方もいるだろう。しかしながらマクロの傾向としても女性の子殺しや虐待は極めて甘く解釈されてるとしか言いようがない事が示唆されている。例えば子殺しに関しては

また殺害に至る前段階の虐待に関しても同様だ。警察の虐待事件で検挙される犯人の7割は男性であるが、(心中以外の)子殺しの犯人は7割が女性と綺麗に性比が逆転する。当然子殺しに及ぶ女性が普段は良き母として振る舞っているにも関わらず、何かの拍子に殺意の波動に襲われ子供をうっかり殺してしまったとは考えづらい。殺害に及ぶ前から虐待等は日常的にあったと考えるほうが自然であるし、実際に殺された児童はほぼ確で衰弱や傷跡が確認されている。つまりこの逆転現象は「女性は虐待しても周囲から虐待と思われなかったり庇ってもらえたりで発覚しにくいが、子供死亡という誤魔化しようがない事態になってはじめて表沙汰になる」ということだ。

https://www.moj.go.jp/content/001338447.pdf


https://www.cfa.go.jp/councils/shingikai/gyakutai_boushi/hogojirei/19-houkoku/

このような環境で虐待ママが加害者としての自覚を持つのは困難だろう。端的に言えば、日本において少子化にも関わらず子殺しママが減少しないのは「豊富なサポート体制と理解があるからこそ」である。

たまによく虐待サバイバーの方から「ママに自分がやった事を自覚させたい。そして謝罪して欲しい」みたいな事を言われる事が、たまによくあるが「諦めなさい」という他はない。日本においてママは殺害という凶行に及んでも「良き母親」という身分を保証される存在なのだ。

先進国の凶暴化する女性達

上記を読んで「ママをとりまく環境が物的にも心的にも良くなってることは分かった。しかしながら“だから子殺しや虐待が減らない”という結論を出すのは乱暴過ぎないか?」と疑問に思った方も多いだろう。しかしながら複数の研究で女性は「豊かで恵まれた環境になるほど暴力的行為をするようになる」ことが示唆されている。

以前私は日本において女性→男性間への暴行が右肩上がりに増えてること及び、それが先進国全般に見られる傾向であることをnoteに書いた。

男女平等になり女性が安心安全に行動出来るようになるほど、女性は男性に暴力を振るうようになる…という事象について補助線になるのが「男女の性差は男女平等社会になるほど拡大する」ことを示唆する研究だ。進化心理学者のデビッドシュミットは様々な異なる文化における性差に関する調査をレビューしたところ、性格、セクシュアリティ、態度、感情、行動、認知能力など、ほとんどの心理的特性の性差は平等な性的役割の社会化とより大きな社会政治的ジェンダーの平等を伴う文化で顕著に大きくなる傾向が確認された。また身長、肥満、血圧など、多くの身体的特徴の性差ですら平等主義的性役割の社会化とより大きな社会政治的ジェンダー平等の文化ではより大きくなる傾向があったという。

https://www.researchgate.net/publication/289724723_The_Evolution_of_Culturally-Variable_Sex_Differences_Men_and_Women_Are_Not_Always_Different_b

とここまで書くと「それってさぁ!つまり女性は本来的には暴力を振るいまくる存在ってコト!?」となる方もいるだろう。勿論そんな事はない…と言いたいところだが、実は児童虐待や男性への暴力以外に「女性は男女平等になるほど凶悪犯罪を起こす」ことが確かめられている。35年間の27か国の女性犯罪率を調べたところ、全ての国で経済的に発展するほど女性による暴力犯罪が増加することが確認されたのだ。わけても女性による財産犯罪および金融犯罪…窃盗と詐欺は爆増している。更に詐欺と窃盗の検挙率と女性の高等教育と社会進出には強い負の相関があることが確認された。

結論を述べるとママの虐待や子殺しが止まらないのは「支援と共感されまくり女性の解放が進んだ結果、女性がその本来の姿を露わにしてるから」という他ない。上記で述べた通り、現在の日本はママに対して間違いなく人類史に類例を見ないほど支援も共感も潤沢に与えられている。最もこれは女性に限らない話であり、だからこそ社会は刑罰と更生という仕組みで人間を縛りつけてきた。その縛りが「女性は善なる存在であり悪意を持たず悪を為さない」という信仰で外され、更に「本来善である女性が悪を為したということは社会の支援や共感が足りなかった証だ」として火に油が注がれている。

人間は社会の中で規範に縛られ生きるからこそ人間なのだろう。女性の子殺しや暴力や犯罪の増加、それらは単に「人間は社会的な抑圧や柵から解放されればされるほど野生の獣に近付く」というだけの話だ。

話はここで終わるが、オマケとして「人間の女性の本来の姿は如何なるモノか?」について少し論じようと思う。ちょっと表に出せないような話なので、有料となるが結論から言えば

女性に育児は向いてない

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