GIRIGIRI borderless worldのMVに登場する記号とLizNoirについて

はじめに

 皆さんはGIRIGIRI borderless worldのMVをご覧になったことがあるだろうか。今回の記事のテーマはこのMVに登場する「記号」である。
 一体何の話をしているのかいまいちピンと来ない方もいらっしゃるだろう。より話題を明確にするべく、下に該当箇所のスクリーンショットを掲示する。なお、この記事に掲載されている画像は全て『【MV】GIRI-GIRI borderless world / LizNoir 作詞・作曲・編曲:Q-MHz【IDOLY PRIDE/アイプラ】』(https://www.youtube.com/watch?v=ueblBOe8jiQ)の動画から引用しており、これらの著作権はProject IDOLY PRIDEに属している。

神崎莉央:/
井川葵:*
小美山愛:…
赤崎こころ:+

 各画像で異なる記号を見つけることができただろうか。莉央と愛に関しては少々わかりにくいかもしれない。とりわけ愛の記号は非常に目を凝らさないと気が付きにくいだろう。私自身、この記事を書く前に愛のだけ一向に見つからず頭を抱えた経験がある。また、莉央に関しては-(マイナス)であるとの見方も十分にあり得るが、ここではあえて/(スラッシュ)として見ていく。-(マイナス)に見えたあなたの感性を大切にしつつ、この記事の内容については一つの意見に過ぎないものと思っていただけると嬉しい。
 今回私がこの記号に着目したのは、このMVの中でこれらだけが明らかに異質であるように映ったからだ。このMV内では各メンバーに三種類のイラストが用意されており、それらを組み合わせて動画が作られている。それらはいずれも似たタッチで描かれているが、歌詞の文字を除けば手描きではない要素は上に引用したイラストの記号しかない。どのイラストも勢いのある力強い絵柄であるがゆえに、三種のイラストの統一感を出すためにはむしろこれらの記号はない方が良いとさえ言える。
 では逆にどうしてこのMVに存在しているのか? わざわざイラストで描かれた(との表現が適切かはわからない、なぜなら前述した通り4つの記号はいずれもおそらく手描きによらないからだ)ことに何か意味があるのだろうか? ところで、私はたいへんな拡大解釈オタクである。公式が提示する全ての描写には何かしらの意味があって然るべきであると考え、些細な情報にどうにかこうにか意味を見出すことに生きがいを感じているのである。
 そんな私は、この記号の存在に気が付いた時に考えた。LizNoir全体を一つの数式として見た時、これらはそれぞれ、LizNoirにおける各人の役割を表しているのではないか、と。
 さて、ここまで読んだ読者の方々のリアクションが私にはありありと想像できる。あまりに突飛な発想に開いた口が塞がらないけれどとりあえずその根拠は聞いてみようと思っている方が多いことだろう。流石にそれはあり得ないと呆れてこの先を読む気さえ失せてしまった方はブラウザバックしているだろうから今の段落には目を通していないと推測されるので、省略した。
 というのも、GIRIGIRI borderless worldは、LizNoirというユニットを象徴する楽曲であると私は解釈しているからだ。その理由に関してはここで語ると本題に入れなくなってしまうので割愛させていただくものの、歌詞の随所にLizNoir全体を感じさせるフレーズがあったりパート分けがかなり意図的に思われたりするのが主な理由だ。後日気が向いたらそれについてTwitterで言及するかもしれないし、もっとやる気が出たならば記事を書くかもしれない。閑話休題、ゆえにそんな楽曲MV内のイラストに各メンバーがユニット内で果たす役割をほのめかす描写があったとしても、そこまで唐突で文脈の存在しないような印象は受けないのである。
 さて、長くなってしまったが、これらの記号が示すLizNoirの4人の役割について細かく見ていくことがこの記事の主要な目的と言える。なお、この記事の内容は全て私の偏見と解釈に基づいており、他の意見や考えを否定したり、あるいはこの記事が絶対的な正解であると主張したり、そういったつもりは毛頭ない。前述したように、これらは全て一つの意見に過ぎないとの認識で読んでいただきたい。

前置き

 個々人の役割との関連性を見る前に、それぞれの記号が何を指していると私が捉えているのか、またそれらを個々のキャラクターに結び付けていく上で頭に入れておいてほしい情報を述べよう。しばらくLizNoirとは直接関係のない話が続くけれど、どうかお付き合い願いたい。
 こうした記号には様々な意味が付与されているものだが、今回はその中でも数学的な意味を持つものとして解釈していこうと思う。/(スラッシュ)は割り算、*(アスタリスク)はかけ算、…(三点リーダー)は余り、+(プラス)がたし算。さらに、これら4つの記号は大きく二種類に分けることができる。莉央の/(スラッシュ)と葵の*(アスタリスク)、そして愛の…(三点リーダー)とこころの+(プラス)である。奇しくもそれは、旧LizNoirの二人と新生LizNoirに新たに加入した二人という形による分類と一致する。
 ところで、読者の皆さんはたし算とかけ算の違いについて考えたことはあるだろうか(ここで引き算と割り算に触れていないのは、たし算と引き算、かけ算と割り算はそれぞれ本質的に同じであるため。例えば×1/2は÷2と同義であるし、-3は+(-3)と書き換えることができる)。「かけ算は分解すればたし算になるから一緒なのではないか」と思う方もいらっしゃるかもしれないが、これらは明確に性質を異にしている。一言で表すなら、たし算は「出力された結果の合成」、かけ算は「入力過程の合成」というはたらきをそれぞれ持っていると言える。
 これだけでは説明不足だと思われるので、具体例も交えつつ詳しく述べていこう。数字は、常に何かしらの単位を持つ。たとえそれが方程式や関数の中の数であっても、同じ「数字」という文字でありながら意味上の「単位」が異なることは頻繁にある。小学校の時に習った「かける数」「かけられる数」とはまさしくこの「単位」の違いについて話していたのだ。
 例えば、ここにリンゴが3つ乗った皿が2枚あるとしよう。リンゴの総数を求める時、誰もが、

3×2=6

 とするはずだ。この時、3は「一皿あたりのリンゴの個数」で、2は「皿の枚数」をそれぞれ表していると言える。つまり、

3(個/枚)×2(枚)=6(個)

 というわけだ。このように、数字には「単位」が存在する。
 もう一つ例を挙げよう。次の数式を見てほしい。

50+50=1

 この数式は誰がどう見ても不成立である。正しくは、次のようになるはずだからである。

50+50=100

 さて、これら2つの式に「単位」を付記してみよう。次のように表記した場合、両式が成立するか否か見てもらいたい。

50cm+50cm=1m
50cm+50cm=100cm

 この場合はどちらも真であることが容易にわかるだろう。「下はともかく上の式はそう書かかないとわかりっこない」と思った方もいるはずだ。そうなのである。たし算に関しては、同じ数式の中に異なる単位の数字が登場する想定はそもそもなく、全て同じ単位であるとの前提のもとに操作(ここでは合成すること)が行われる。異なる単位の場合は横にしっかり記載しておかなければ、それらは同じ単位の数として扱われるのだ。
 先ほどのかけ算の式を思い出してもらいたい。あの式には3と2という異なる単位の数が当然のように登場し、私たちもそれを当たり前のように受け入れた。当該の式において、二つの異なる単位(「皿一枚当たりのリンゴの数」と「皿の数」)が最終的に一つの単位(リンゴの数)になっている。つまり、単位が合成されているのである。たし算では単位自体に変化はなく、あくまで数が同じ単位に属する前提で合成されていたことを考えると、そこには大きな違いがあるとわかるだろう。
 ここまで書けば、最初の「入力過程」と「出力された結果」がそれぞれどのようなものか、なんとなくでも理解いただけたのではないだろうか。前者は先ほどから頻りに登場する「単位」であり、後者は単位の変化がない状態の数のことである。同じ理屈により、一つの数式の中にかけ算とたし算が存在する場合、特に括弧などのない場合にはかけ算が優先されることについても説明することができる。先に入力のやり方を合成しなければそもそも出力が完成せず、出力された結果ありきであるたし算の操作はできないからだ。
 長々と書いてしまったが、この前置き(そう、まだ前置きの段階なのである!なぜならこの記事では個々のキャラクターの役割を見ていくのが目的なのだから、本題に入れているようで全くそのようなことはないのである)で読者の方々に理解していただきたいのは、かけ算は「入力のやり方」、たし算は「入力の後に出力された結果」をそれぞれ合成しているということに尽きる。このことを念頭に置いていただければ、以下の文章を読む上で特に支障は生じないはずだ。

 さて、長い長い前置きもひと段落着いたので、ここから本題に移ろう。最初に分類したように、莉央と葵、愛とこころに分けて考えていこうと思う。念のため下に今回話題に上がっている記号と、この記事におけるその数学的意味をまとめておく(わざわざ「この記事における」との注釈をつけているのは、三点リーダーなどは特定の意味が定まっていないためである)。

莉央:/(スラッシュ、割り算)
葵:*(アスタリスク、かけ算)
愛:…(三点リーダー、余り)
こころ:+(プラス、たし算)

神崎莉央と井川葵

 前置きの「割り算とかけ算は本質的に同義」という文言の時点で、またこの二人が切っても切り離せないという話に持っていくのかよと予想された方もいることだろう。そして予想を裏切ることなく、今回の記事でも結局は近い着地点となる。結論から言えば、この二人がLizNoirで果たしている役割は切り口が異なるだけで実際は同一であると私は考えている。勿論、その切り口の違いによってLizNoir全体のバランスが上手く取れているのだけれど、やはりこのユニットで彼女たちが何のはたらきを持つのかという根幹で両者の役割は一致していると思われる。
 前置きで散々説明した通り、かけ算が合成するのは「入力のやり方」である。出力が行われる前の段階で、そもそもどのような方法で計算を行っていくのかを規定しているとも言い換えられる。
 LizNoirにおいて莉央と葵という旧メンバーの二人が果たしている役割は、主にユニット全体のスタンスの確立と考えられる。圧倒的なパフォーマンスで見た者全てを圧倒し、誰にも媚びず気高く咲き誇る。そんな現在も続くLizNoirの根本的な生き様を決定づけたのは、紛れもなくこの二人であった。
 さて、LizNoir全体を一つの数式と見た時、この「根幹をなすスタンス」は「入力方法」と同義である。どのような結果が出力されるのかどうかではなく、あくまで「こういうやり方で入力する」=「このような姿勢でアイドルとして生きていく」形を決めた、というのが大きなポイントだ。ゆえに、莉央と葵がそれぞれ割り算とかけ算の記号で表されているのも非常に納得の行く話であろう。また、たし算が出力の結果がないとはたらかないのに対し、かけ算が重視するのは結果ではなく過程であり、これは莉央と葵の二人、とりわけ莉央のスタンスとも重なっている。彼女は確かに勝ちたい、一番になりたいと強く望んでいるが、それはあくまで「自分が納得できるやり方で正々堂々戦った上での勝利」であり、結果が良ければ途中過程がどうであれ構わないなどは決して考えない。むしろ、過程が自分の納得の行くものでなければいかなる結果も無価値であるとさえ思っていると言える。莉央は東京編でさくらたちに対し、自分にとってのアイドルは戦いである、と述べている。結果を重視しているならば「戦い」ではなく「勝利」と表現するだろう。あえて「戦い」という言葉を選んだのは、莉央が何よりその過程を大事にしているからだと考えられる。同じく姫野のプロデュースを受けていたIIIXと比較するとよりわかりやすい。IIIXは完全勝利という結果のみを求めていたため、姫野の姑息なやり口にも特に苦言を呈したりすることはなかった。一方莉央と葵は、バラエティー番組などのメディア露出により世間に媚びを売ろうとする姫野の方針にはあからさまに反発していた。高いクオリティのパフォーマンスで観客を魅了する、その過程に重きをおき、その過程こそがLizNoirをLizNoirたらしめていると考えていたからだろう。他のアイドルに勝ちたいという気持ちの強い2つのユニットではあるものの、両者はこうして見ると正反対であるとも言える。
 また、莉央が割り算、葵がかけ算であった点もそれぞれ二人らしいと思う。というのも、割り算では答えは小さく、かけ算では反対に大きくなる(これはあくまで割る数ないしかける数が1より大きい場合であり、1より小さい分数や小数などでは当然商は割られる数より大きくなり、積はかけられる数より小さくなる。今回はあくまで「イメージ」の話をしているので、このように割る数とかける数が1より大きい場合について記述した)。莉央がアイドルを始めたのは母親の助けになりたいから、という義務と責任に駆られてっであった。その過程で数多くのものを切り捨ててきただろうことは想像に難くない。だからこそ、葵と出会った時の彼女はダンスを純粋に楽しむことができていなかったのだ。他方葵は莉央とは反対に芸能界に入ったのはひとえに「楽しくダンスができるから」である。義務も責任も何も考えず、彼女が踊るのはただ楽しいから、それが生きている証だからなのだ(話は少し逸れてしまうが、莉央と組んで数年を経てLizNoirのブレーンとして多くのものを抱えることを厭わなくなったのは井川葵の大きな変化であるとも言える)。莉央は葵と出会ったことでステージそのものを自分自身で楽しむことができるようになったけれど、それだけではなく、しっかり葵を律することも忘れていない(デビュー直後のライブで「ファンに丁寧に対応しなさい」と注意していたことを始め様々な描写から読み取れるはずだ)。
 割り算で莉央がどんどん削って小さくしていったものを、葵がかけてなるべく元の大きさに近づくよう増やしていく。でもLizNoirという数式で導かれる数があんまり大きくなりすぎないように(ここでの大きいというのは楽しんだりと言った単にプラスの要素の強さの指標)、時には莉央がまた割って。何度も試行錯誤しながら、旧LizNoirの二人は、暗闇のなかであっても気高く咲き誇るという「入力過程」を確立していったのだと思われる。

小美山愛と赤崎こころ

 さて、前述の通り莉央と葵が「入力過程」を確立しきった後に加入したのが愛とこころである。この二人がこの「数式」の中で果たす役割とは、一体なんであろうか。
 小美山愛の性質は、LizNoirにおいてかなり異端である。LizNoirは、経緯に差はあれ自分のためにアイドルを始めており、続けている理由も「一番を掴み取りたい」「パートナーや仲間と楽しく踊りたい」「見返したい」といずれも自分が中心にあり、良い意味で非常に「自我」の強いユニットであると言える。一方で愛はきっかけは「父に恩返しがしたいから」であったり、一問一答で絆を感じた相手に同じユニットの仲間ではなくファンを挙げていたり、自分はこのユニットにいない方が良いと考えて誰にも相談せず引退しようとしたり、他の三人と比べても極端にそういった「自我」が薄いように感じられる(一問一答の件については、ほぼ全員に聞かれている質問でありながらほとんどが同じユニットの仲間とのエピソードを挙げている中、ファンの話をしたのは愛の他には長瀬麻奈のみであり、全体で見ても非常に特異であると考えて良いだろう)。それに、初期☆5に始まり水着衣装に至るまで、愛はほぼ(ほぼ、とあえて限定したのは私が彼女のカードを全て所持しているわけではないからだ)全てのストーリーで自分がLizNoirには必要ない「端っこ」であることに悩んでいる。他のメンバーからの手紙や牧野からの励ましがあっても、2022年12月31日現在、そのきらいは大きくは変わらないままだ。こうした自身を極端に過小評価しがちな性質は、他のメンバーにはない愛特有の――少なくともここまで強く表面に出ているのは彼女だけ――ものであると言える。
 だが、愛がLizNoirにおいて単に特異であるだけなのだろうか。もっと言えば、彼女が「特異である」と見なされるのは、自我が弱いという理由のみで片付けられるものだろうか。愛の役割を詳細に検討する前に、彼女の数学記号が「…(三点リーダー)」であり、これが割り算の「余り」を意味すると解釈していたことから、概略を述べることとする。すなわち、愛は神崎莉央が割って切り捨ててきた、そして井川葵がかけても戻せなかった部分の象徴である、と私は考えているのである。
 この論拠として、イベント「芽吹く黒ユリの蕾」のストーリーの序盤での愛が挙げられる。彼女は、ステージがあまりに楽しく、どんどん周囲の動きや音楽とずれていってしまう。これが神崎莉央には起こり得なかっただろうことは確実だ。というのも、莉央は葵と出会う前、義務感やそれに起因する焦燥に縛られており、ダンスが重くなりはしていても基礎の部分から崩れるようなこと、それこそ他のアイドルや音楽と大幅にずれる、などは一切なかった。高い質のパフォーマンスを求めるあまりダンスを楽しむ感情を切り捨てようとしていた莉央からすれば、愛のこの本末転倒とさえ呼べる失態はあり得ないことだろう。
 割り算の余りは、商にそれ以降何をかけたとしても答えに再び組み込まれることはない。愛がLizNoirで異例な存在となっているのは、莉央と葵で「入力過程」を確立していく中で切り捨てられ、その後ずっと置いて行かれたままだった要素、言うなればLizNoirというユニットを作り上げる上で不必要であるとされたものだから、なのではないだろうか、というのが私の考えである。愛がLizNoirで唯一「自我」が薄いのも、莉央の「自我」がアイドリープライドという作品の中でもかなり強い部類に入ることを考えると、むしろ必然だろう。また、愛が自身をLizNoirの端っこであると考えてしまうのも頷ける。なぜなら、彼女の姿はかつてのLizNoirとは全くもって相容れないからだ。憧れだったLizNoirのスタンスとは大きく異なる自分自身に、自分の存在価値を疑ってしまうのも無理はない。しかしそれは逆に、切り捨てて振り返ってこなかった要素である愛が入ったからこそ、新生LizNoirはこれまでとは全く違う新たな段階へと進化できた、と考えることも可能なのである。
 ここまで読んで、それならば新生LizNoirにこころは不要だったのか、との懸念を抱いた方もいるかもしれない。されど、前述の通り、割り算の余りが答えに現れることは、かけ算と割り算だけでは不可能である。そこには、加減――つまりたし算と引き算――が必要不可欠なのだ。本記事におけるLizNoirに置き換えれば、莉央と葵の作り上げてきたLizNoirの「答え」に愛が加わるためにはこころが足さねばならないのである。
 実際、LizNoir番外編において愛とこころが加入した理由と自分たちに足りなかったものの正体を莉央と葵が知るきっかけは紛れもなくこころが単身直談判に乗り込もうとしたことだ。ここで彼女が動くと決めて行動に移さなければ、莉央と葵はいつまでも自分たちが何をなくしてしまっていたのかに気付くことができなかっただろう。また、先ほども登場したイベント「芽吹く黒ユリの蕾」においても、二人だけでの解決が困難になるほど拗れてしまった愛と莉央を繋ぐべくこころは暗躍している。
 さらに、こころがLizNoirの「たし算」を担うことが意味するのは、愛と旧LizNoirの二人を結び付ける役割だけではない。前置きにおいて、かけ算は「入力のやり方」、たし算は「入力の後に出力された結果」をそれぞれ合成していることを説明した。こころのLizNoirにおける位置づけが「たし算」であることのもう一つの側面は、まさしく「出力された結果を合成する」ことであると私は見ている。
 以前別の記事(https://note.com/beans_sprouts/n/n02953d13a94e#a9231a95-03d2-43c4-ae7b-e68d28992e2f)において私は赤崎こころを以下のように分析した。

 普段から次のセンターを狙っているなどの言動が多く、自分の可愛さを活かそうとしている、自分が一番目立っていたいように見える彼女のAスキルは他のアイドルを立てるものなんですよ。信頼度が上がってきた後のメッセージなどからも、素直になりきれずふざけていると勘違いされがちですが、LizNoir全体の魅力を底上げしたい、他のメンバーの良いところ、可愛いところをもっと沢山の人に知ってもらいたい、と彼女が本心から思い、尽力していることが読み取れます。カードエピソードのテーマが”長瀬麻奈でも神崎莉央でもない赤崎こころ”である聖歌隊こころがバッファーである点も、赤崎こころのアイドルとしての”核”が何か、という議論における一つの答えになっていると思います。ちなみに聖歌隊こころのスキルの強化対象は全て他のアイドルであり、自分自身へのバフ効果が一切ありません。このカードの性能と、初期☆5のAスキルの内容を考えると、赤崎こころは周囲のサポートやプロデュースで本領を発揮するタイプと言えそうです。したがって、こころの初期☆5がサポーターであるのはたいへん理に適ったものであると思います。

アイプラ初期☆5の話(TRINITYAiLE、LizNoir、長瀬麻奈編)
https://note.com/beans_sprouts/n/n02953d13a94e#a9231a95-03d2-43c4-ae7b-e68d28992e2f
より

 愛と旧LizNoir(主に莉央)を結ぶという話と合わせると、こころは、LizNoir全体の出力結果を合成し、全体をLizNoirにしている、と考えることもできる。サポートにおいても適性のある彼女に「出力結果の合成」を意味するたし算の記号がGIRIGIRI borderless worldのMVで割り振られていることには一貫性を見ることができるだろう。

おわりに

 今回、LizNoirのGIRIGIRI borderless worldのMVにおいて各人と共に描かれる記号をユニット全体におけるそれぞれの役割と照らし合わせて考えた。過程を重視してLizNoirの基本的なスタンスを確立した莉央と葵、莉央がかつて切り捨ててきた概念そのものである愛、それら全てを足し合わせて新しいLizNoirとするこころ。他ならぬこの四人が集まったからこそ、LizNoirは新生LizNoirとして生まれ変わることができたことは間違いないだろう。誰が欠けても今のLizNoirはいなかった。それを今、改めて痛感している。
 LizNoirの出会いの不思議に感慨深くなったところで、この記事を終わりとしたい。ここまでお付き合いいただき本当にありがとうございました。

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