LizNoirは本質的に「孤独」である

 ――これから最高優美な孤独が、私の武器だ。

 そう力強く歌い上げる彼女たち――LizNoirの楽曲には、度々「孤独」という言葉が登場する。この記事では、四人にとってこの言葉が何を意味しているのかについて主に論じたい。
 結論から述べれば、タイトルにある通り「LizNoirというユニットは本質的に『孤独』である」が私の見解だ。この記事の前半で、その根拠を、
デフォルト衣装の名前などから考えるユニットの特性と、以前別の記事で言及したGIRIGIRIborderless worldのMVに登場する記号のうち赤崎こころのものに関する更なる考察、これら二つの観点から展開していく。後者に関しては、おそらく前の記事を読み終えてからの方がはるかに要旨を掴みやすいと思われるので、時間があれば読み進める前に目を通していただきたい。

 また、記事の後半では、「孤独」なLizNoirは「寂しい」のか、についても触れる。「孤独」という概念と切っても切り離せない「寂しさ」は、ことLizNoirに至ってはどう解釈できるのだろう。LizNoirにとっての「孤独」は、世間一般にそれが意味することと比べ、どういった点で特異なのだろうか。私はこの記事において、これらの議題に対する一つの答えと、そこから神崎莉央のフェスカード「奇跡より必然」についても少し踏み込んだ解釈を提示するつもりだ。
 なお、以下の内容は全て筆者個人の意見に過ぎず、これが絶対的な正解であると主張したり、これ以外の考えは認めないと他者に押し付けたり、そういった意図はこれっぽっちもない。あくまで新しい切り口の一つとして楽しみながら読んでいただけたら幸いだ。また、本記事に引用する画像の著作権は全てProject IDOLY PRIDEに属していることをここに明言しておく。

LizNoirは「孤独」である

1.四輪の黒百合

 ところで、LizNoirが何輪の花なのか、読者の皆様は考えたことがあるだろうか。
 この作品に登場するユニットの多くは「メンバー全員が集まって一つの何かとなる」ことをコンセプトとしている。サニーピースは五人が合わさって一つの星に――あるいはそれは太陽と呼ばれるかもしれない――となって人々を照らす。TRINITYAiLEは、ユニット紹介動画で「三位一体」と評される通り、二人が一人の翼としてそれぞれが支え合い一つとなって羽ばたいていく。つまり、LizNoirが、四人が合わさって一つの大輪を咲かせるユニットなのか、あるいはそうではないのかを考えることで、このユニットの根幹にある性質を明らかにできるのである。
 ちなみにこの答えは、実は既に公式から明確に与えられている。ゆえにこの議論自体に価値を感じない方もいるかもしれない。しかし、答え合わせはこの節の最後に取っておくとしよう。まずは、いくつかの情報からこの問いへの答えを導いてみたい。そうして、公式の出す答えが帰納的にも導出可能なものであると示すことにする。
 ここで取り上げるのは、主に二つ。LizNoirの初期衣装の名前、それからTVアニメED映像第2弾 「The Last Chance(莉央&葵ver.)」である。

 LizNoirと言えばあれ、というくらいには馴染みある、あのスタイリッシュな紫の衣装。冠された名は「ノーブルリリーズ」。直訳すれば、「気高き百合たち」となる。この時点で、複数形が用いられていることから、LizNoirが一輪の黒百合であるとの線はほぼなくなったと言っても過言ではないが、念のため他のユニットの初期衣装名とも比べてみれば、よりその特異性がわかることだろう。列記すると次のようになる。

月のテンペスト:クイーンオブザナイト(夜の女王)
サニーピース:アセンブルハーモニー(集まった和音)
TRINITYAiLE:シュヴァリエール(騎士)
IIIX:レフォルムアロー(改革の矢)

 読者諸賢にはお気づきになられた方も少なくないだろう。複数形をわざわざ使っているのは、LizNoirだけなのだ。唯一LizNoirだけが、四人が重なって一つの和音を作ったり、あるいは大きな意味の女王として君臨したりするのではなく、気高い個々の黒百合が集まっており、一輪一輪の輪郭――自他の境界線と呼んでも差し支えない――を残しているのである。彼女たちがあえて複数形で記述される存在であること、これは非常に特筆すべき事実と言えるのではないだろうか。

 LizNoirが指す対象が決して「一輪の花」などではないことは、別の描写からも窺える。前述したTVアニメのED映像だ。このエンディングのラストカットでは、最後に二輪の黒百合がスポットライトに照らされている。

TVアニメ「IDOLY PRIDE -アイドリープライド-」ED映像第2弾 「The Last Chance(莉央&葵ver.)」(https://www.youtube.com/watch?v=CL0g7ovJb2c)より引用

 このPVには莉央と葵しか登場しないため、これらの花はこの二人を形容しているものだと考えるのが最も自然だろう。ノーブルリリーズが愛とこころを加えた新生LizNoirでも継続して着用されていることも踏まえれば、この「一人ひとりが気高く咲き誇る」という旧LizNoirから存在しているスタンスは現在も健在であると言える。新しく生まれ変わったことでLizNoirは数多くの変化ないし進化を遂げたけれど、その一方でずっと変わらない、変えてはいけないことも確かにある。そして、このLizNoirの「四輪の黒百合」として輝く姿勢は、変わらずにいる性質の一つとして、女たちの核の部分に近しい場所に位置していると考えられるのだ。

 結論として、LizNoirは四人が一つに溶けあって新しく大きな一輪の花を咲かせるのではなく、個々のメンバーがそれぞれ一輪の黒百合であり、全体で見れば四輪の花が集まったユニットと評することができる。

 ここまで帰納的にLizNoirが個々の境界を保持したままであり、各々が気高き一輪の黒百合であることを示してきた。この節は、お待ちかねの公式サイトとの答え合わせで締めくくろうと思う。下に引用したのは、公式サイトのユニット紹介である。

Project IDOLY PRIDE公式サイト(https://idolypride.jp/character/rio-kanzaki/)より引用

 これによれば、LizNoirはそれぞれが「LizNoir」として、彼女らのステージでは四輪の花が美しく咲き誇っているようだ。フランス語でNoirは「黒」、LizはおそらくLisと同義で「百合」を意味する。ここで、たいへん興味深いのが、フランス語においては単語の末尾が-s、-x、-zの場合は単複同形となることだ(東京外国語大学言語モジュール 2021)。すなわち、「LizNoir」という言葉が一輪かどうかは文脈に依存するのである。したがって、上の画像のように文章中に意味の異なる「LizNoir」という語を登場させる、というたいへん面白い芸当も可能になるのである。LizNoirとは、四人が集まった時に「LizNoir」となるのは勿論のこと、それのみならず、メンバー各個もまた「LizNoir」である、非常にまれなユニットと言えるだろう。

2-1.数学における「+」

 この節では、冒頭で紹介がした記事で述べた赤崎こころの果たす「+」としての役割について、もう少し掘り下げていく。そうは言うものの、まずは数学におけるこの記号のはたらきの特異性を論じなければならない。2-1では基本的にそうした数学的な事柄の軽い解説のみを行い、アイプラ関連の話は次の2-2で触れ始める。そのため、お急ぎの方などは読み飛ばしてしまってもさほど支障はないと思われる。目次から次節に飛ぶことができるので、適宜活用していただきたい。

 数学のたし算での「+」とそれ以外での一般的な「+」、これらの間には明確な隔たりが存在する。
 例として、目の前に一つの泥団子Aがあると想定してほしい。今からここにもう一つ別の泥団子Bをたすと言われ、あなたはどのような結果を思い浮かべただろうか。おそらく以下で触れる二通りのどちらかである人が多いはずだ。
 一つは、Aの隣にBを並べて数え上げる、というものだ。この場合、最終的に泥団子は二個あることになる。
 他に、AとBを文字通り合体させてAより大きな泥団子A'を新しく作ることも、十分に想像される。こちらでは、最終的な泥団子はA'の一個のみだ。
 どちらも同じ「A+B」という作業を実行したにも関わらず、結果は大きく異なっている。これは、前者と後者においては「+」の果たす役割が同一でないことが原因だ。すなわち、最終的な個数が二となった方が数学的な考え方、一となった方は一般的な(数学的ではない)考え方である。
 両者の違いで着目してほしいのは、「数え上げる」という言葉の有無だ。一般的な「たし合わせる」という行為においては、原型を留めさせずに「混ぜ合わせて」新しいものを作り出すことが多い。泥団子の例に限らず、料理で薄力粉に卵を「たす」時や、レゴブロックを組み合わせて「たす」時なども同様だ。これらの場合、材料の輪郭は消えてしまい、そこにはただ新しく生まれた別のものがあるだけである。
 しかし、数学の、たし算の場合はそうではない。数学において「たす」という概念が意味するのは、「同じグループのものとして番号を振る」ことだからだ。材料の形が変わることも、新しく何かが生み出されることもない。そこにはただ、番号を振り「数え上げた」結果が残るのみ。そもそも数学自体、目の前の物体を抽象化し数にすることで、あらゆるものを同じにできるようにする(例えば、どう見ても同じには見えない三個のリンゴと三匹の犬は、いずれも数学的に見れば同一の「3」である)学問なので、材料をたしたところで実際のものが変化するはずもないのだ。
 したがって、数学とそれ以外での「+」の意味の差異は「たした後の結果に個々の境界が残っているかどうか」とまとめることができる。前者では後者と異なり、完全に合わせて混合物にしてしまうのではなく、あくまで同じグループに所属していると認識し新しく番号を与えているだけだからだ。

2-2.LizNoirという数式における赤崎こころ

 さて、長々とした前置きを終え、LizNoirでの赤崎こころの役割という本題に入ろう。前節では、数学における「たす」行為の結果では、たされた材料同士の境は維持されていることをざっくり紹介した。それに従えば、赤崎こころの役割の「出力された結果の合成」という表現にはもっと情報を追加することができる。「出力された結果をそれらの輪郭を消失させることなく合成する」と言えるのだ。
 こころが四人の魅力をたし合わせ全体をLizNoirとする一方で、四人それぞれの境界線を失わせていないことは、第一節での「LizNoirは四輪の黒百合である」とする言説と非常によく噛み合う。

3.第一章のまとめ

 この章では、二つの視点からLizNoirは同じユニットとして四人で活動しているけれど、決して混じり合って一つになるわけではなく、互いの境界を取り除いたりなかったことにしたりはせず、自分自身を持ち続けたまま各々が気高く咲き誇っていると論じた。要するに、LizNoirは他のユニットと比べれば、ある意味「孤独」と呼べる。章題にある「孤独」とは、LizNoirの四人がどう関わり合っているのかの一側面を表した言葉なのだ。ここでわざわざ「一側面」と付け加えたのは、LizNoirの関係は単に「孤独」という一言で形容できるものではないからだ。彼女たちの「孤独」は、広義のそれとは一線を画している。LizNoirの「孤独」に特異性をもたらす要因として、次の章では、この言葉に必ず付随する「寂しさ」について考えていこう。

LizNoirにおいて「『孤独』⇒『寂しい』」という命題は真なのか?

 「孤独」を辞書で引くと、以下のような文言がある。

こ-どく【孤独】
① みなしごと、年とって子どものないひとりもの。また、身寄りのない者。ひとりぼっち。ひとりびと。
②(形動) 精神的なよりどころとなる人、心の通じあう人などがなく、さびしいこと。また、そのようなさま。

精選版日本国語大辞典より、具体例は省略(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/孤独

 さらに、「寂しい」という言葉は、同サイトのデジタル大辞泉で引くと説明は次に引用するものとなっている。

さびし・い【寂しい/×淋しい】
 心が満たされず、物足りない気持ちである。さみしい。
②仲間や相手になる人がいなくて心細い。
 人の気配がなくて、ひっそりとしている。さみしい。

デジタル大辞泉より、具体例は省略(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/寂しい

 上に示すことからも、「孤独」と「寂しい」の指す概念が一定の割合で共通した意味を持っていると言える。しかれども、LizNoirの「孤独」は必ずしも「寂しさ」と結びついてはいないと私は考えている。つまり、世間一般の「孤独」と彼女たちとのそれの違いは、「寂しさ」の有無なのではないか、ということだ。この章では、主に小美山愛のカード「クールにキメるぼっち収録」のストーリーと、記事冒頭で歌詞を引用した楽曲である最高優美ロンリネスの歌詞、これら二つを軸にして議論を展開していこう。特に最高優美ロンリネスの考察では、神崎莉央のフェスカードに関する解釈も述べるつもりだ。

1.「ぼっち収録」での愛の自覚

 このカードのストーリーでは、愛のWeb番組単独出演に焦点が当たっている。愛は収録当日、緊張とプレッシャーから空回りをしてしまい、撮影は予備日に再び行われることとなる。バレンタインの時から愛の「LizNoirの三人を自分が輝かせる」という誇りが明確になり、自分がLizNoirで果たす役割を見定めた彼女は自らの表出した言葉に縛られ、結果今回のように空回りしてしまう事態に陥ったと推測される。だが、牧野に「愛がLizNoirを『背負う』だけではなく、愛もまたLizNoirに『支えられ』ている」と言われ、自分が一人ではないと気が付き、予備日にはしっかりと本領を発揮し輝くことができた。
 以上がこのカードストーリーのあらすじである(細かい部分は割愛したけれど、このストーリーは小美山愛推しなら絶対に一度は見るべきものとなっているため、未読の方は是非今からでもアイドリ―プライドを開いてガチャ画面に飛ぶことを推奨する)。注目すべきは、愛が「自分は一人ではない」と自覚することだ。たとえ今この瞬間実際にステージに立つのが一人だけであったとしても、他の三人も、そして一輪の「LizNoir」として咲き誇る自分自身の歩んできた道のりそのものまでもが、支えてくれている。どんな時であったとしてもLizNoirが完全に一人ぼっちになるようなことはないのである。これは「寂しさ」とは対極にある状態と言えよう。LizNoirは完全に融合することはなく境界線を残したままである一方で、いつ何時も「寂しさ」を覚えるようなことはない。なぜなら、それぞれの「LizNoir」自身が常に心の支えとするものに、四人でのLizNoirがあるからだ。このカードストーリーからは、そうした情報を読み取れる。

2.「寂しいかい?」

 LizNoirにとっての「孤独」に最も踏み込んだ楽曲は、タイトルにlonelinessと入った最高優美ロンリネスで間違いないだろう。実際歌詞の中にも何度も「孤独」に関連した単語が現れている。そして、「寂しい」という言葉も。一番のサビとラスサビは節のタイトルにもある問いかけで締められている。しかし、これはただの疑問形ではなく、前後の文章も踏まえると反語になっていると見るのが適切であると思われる。つまり、実際にはこの問いのあとには「否、寂しいはずはない」という否定の意志が隠れているのだ。
 該当箇所の直前部分を見てみれば、それぞれ「今ここで会えたけど…」と「今ここで運命的な偶然でまた会えたけど…」とある。逆接なので、一連の表現は「こうであるにもかかわらず寂しいと思うのか?思うはずがない」といった内容の文章と見えるので、この箇所が寂しくない直接的な理由と言ってよいだろう。したがって、LizNoirの「孤独」が「寂しさ」と縁遠いのは、「今ここで会えたから」、もっと言えば「運命的な偶然で会えたから」とわかる。ここで、Cパートにある「孤独に呼ばれた夢が出会う度に研ぎ澄まされてく」との歌詞から、一人ひとりが「孤独」に夢を抱き、その夢が四人で出会ったことで磨き上げられていく過程が想像され、「会えた」のがLizNoirの四人であるという解釈が成立する。四人が出会えたから。だから、個々人の孤独な夢は研ぎ澄まされていく。だから、「孤独」を武器としても寂しくない。これは第一節で論じた愛のカードストーリーでの自覚と共通している概念だ。
 ところで、「運命的な偶然」とは、このLizNoirの文脈にとって、一体どういった概念なのだろう。まずは「運命」と「偶然」の定義を確認しよう。これらを辞書で引くとそれぞれ次のような意味が掲載されている。

うん‐めい【運命】
[1] 〘名〙人間の意志を超えて、幸福や不幸、喜びや悲しみをもたらす超越的な力。また、その善悪吉凶の現象。巡り合わせ。運。命運。転じて、幸運、寿命、今後の成り行き。
[2](文学作品などが列記されているため割愛)
[語誌](1)漢籍にある「運命」は、「めぐりあわせ」「うまれつき」「天命」などの意味を持つが、日本では、挙例の「中右記‐寛治七年一二月四日」にある「寿命」の意の用法のように、独自の意味変化も見られる。
(2)「平家物語」では「運命ひらく」「運命かたぶく」など、「幸運」の意の用法が優勢である。
(3)西洋からもたらされた運命論と結び付き、現代では、「宿命」か「生末」の意味で用いられる。

精選版日本国語大辞典の記述を一部改変(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/運命

偶然
ぐうぜん
hazard; chance

chanceはさいころが落ちることを意味し,hazardは十字軍の兵士たちがさいころ遊びを考案した場所の名に由来する。だれが意図したわけでもなく,だれも予見しえなかったことが,当事者の目的意識を裏切る形で起るとき,その起り方をいう。奇跡とは異なり当の事件は世界連鎖に基づいて起っているが,その連鎖が人間の判断能力をこえているのが特色で,直接関係のない2つ以上の事件連鎖のぶつかり合いから生れる付随的効果として説明される。当事者の目的意識が偶然の要件の一つであるから,必然的に価値判断が介入し,偶然は幸運や不運の代名詞となることが多く,さらにその効果の大きさから偶然が人格化もしくは神格化されて,運命の意味に接近することもある

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より引用(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/偶然

ぐう‐ぜん【偶然】
〘名〙 (形動ナリ・タリ)
① 他のものとの因果関係もつながりもはっきりせず、予期しないことが起こること。また、そのさま。思いがけないこと。⇔必然
② (副詞的に用いて) ふと。たまたま。

精選版日本国語大辞典より、具体例は省略(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/偶然

 上記に登場する「奇跡」「必然」といった言葉が、アイプラでの文脈を考える取っ掛かりとなるだろう。これらを踏まえれば、「運命的な偶然」は、「奇跡とは明確に異なり、限りなく運命に近いもの」と言い換えることができる。「偶然」自体が「運命」の意味に近づく可能性を持ち、その上でここでは「運命的」との修飾語まで与えられているためだ。
 ここで、神崎莉央のカードに「奇跡より必然」というタイトルのものがあることを思い返そう。このストーリー内で莉央は、「自分たちがここに立っているのは奇跡ではなく必然である」「LizNoirは奇跡ではなく必然を成し遂げて見せる」とステージで宣言している。これらの発言から、LizNoirにとっての「必然」が、彼女たちが今ここでLizNoirであるに至った事実を象徴する概念であること、これからもLizNoirは必然を実現し続けるつもりであること、などが理解できる。さらに、アイプラでは長瀬麻奈の代名詞でもある「奇跡」と、莉央の言う「必然」は全く別のものであるともわかるだろう。
 以上から、先ほどの話題に戻ると「運命的な偶然」とはすなわち「必然」である、との仮説が浮かぶ。「偶然」だけではむしろ対義語にあたるのに、直前に「運命的」とあるおかげで続く「偶然」も運命に寄った意味と解釈可能になり、結果として語義が反転しているのは非常に興味深い。
 ゆえに、LizNoirは「孤独」でありながら、「必然」で出会えたから決して寂しくはないと言える。したがって、章題にある問いへの答えは、「否」である。私は、ことLizNoirにおいて、命題「『孤独』⇒『寂しい』」は偽であると主張する。そして、ここまで読んでくださった読者の皆様なら、あなた自身が納得するかは置いておいたとしても、こう主張する根拠を理解できたと思われる。

まとめ

 この記事では、LizNoirにとっての「孤独」を深く考えていった。前半ではLizNoirが「孤独」であること、後半ではその特異性を。自分たちの孤独に対し「最高優美」と、驕りも不遜もなく、己の誇りとして歌うのに相応しいユニットであると断言できる。また、「寂しさ」を感じないのが必然の末の「出会い」によるというのも、彼女たちの「出会いの不思議」の重みを感じてしまう。
 GIRIGIRI borderless worldの記事と近い着地になってしまったが、様々な切り口から同じ結論を導出するのは帰納法の醍醐味とも言えるので問題はない。と少し誤魔化して筆を置こう。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?