死ぬんデス

死に方にも種類がある。寿命。自殺。他殺。事故。病死。大体こんなもんだろう。これらを2つのグループに分けるとすると他殺、事故と寿命、病死、自殺になる。

ところで、人と死は切っても切れない関係で結ばれている。この世に生まれた時点で死ぬことは確定しているからだ。だが、生きているうち毎日死と隣り合わせという状況にいるのはお医者さんなどのごくわずかな人である。それ以外の人々は、親戚や家族、友人、ペットが死んでしまったときぐらいにしか関係が目に見えない。

「死」というものを人間は恐れている。人間だけではなく、すべての生命に対して「死」は敵対すべきものだ。ひとつの生命体が死せず生き続けられないから種族だけでも存続させようと生命体は命を託す。

ただ、死ぬということで受け継がれる意思もある。「死」そのものがその人の人生の価値を高める。ということもある。死ぬことで完成する芸術もあるだろう。

話を元に戻す。先ほどのグループは自分の死ぬ時が分かるか否かで分けた。前者は、唐突に訪れる”死”。後者は大体の目途が立つ”死”。つまり自分の死を受け入れる時間の有無だ。

自分の死が来るとわかっていれば、それまでにやりたいことをやればよい。やりたいこと以外のことをやらずに生きればよい。例えば余命半年であるとすれば、何でもできるだろう。つまらない仕事を辞め、生きたかった国に行き、食べたかったものを食べられる。好きな人に好きと伝えられる。だが、ほとんどの場合それはいつ来るかわからない。いつ来るかわからないものには手の打ちようがない。常にやりたいことをやっていればいいわけだが、現実にそんなことはなかなかできない。どこかで、躓いてしまう。

ならば、死ぬ地点を決めれば恐れることはないのではないか、と思った。例えば、10年後に死ぬと決めれば10年でやりたいことをやり切ればいい。いつ死ぬかわからない中でやりたくないことをやっている場合ではないのかもしれないから。


人生はゴールの見えないマラソンだ

というような言葉を聞いたことがある。ならば、自分でゴールを決めてしまえばいいということだ。

細く長く生きるくらいなら、太く短く。

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