昔々のムカつくお話

 私は食べ物のお赤飯が嫌いだ。小さい頃から苦手で、親戚が持ってくればそれには手を付けず、仕方ない時は涙目で噛み締めてるかのように食べた。

 成人した私は歌ってみたの赤飯さんという人が好きだった。赤飯さんの歌を暇さえあれば聞いていた時期があった。そして、ある時オタク趣味のわかる親戚に言ったのだ「歌い手の赤飯さんが好き」と。数日後、お重いっぱいに入った赤飯が親戚から届き、あの時は言わなきゃ良かったと思った。

 好きなもの、気に入ったもの、面白いものというのは人に話すと曲解する。小学校の頃もそうだった。

 小学校の頃、ランキング付けが流行っていた。好きな人ランキングというのを各自発表しなくてはならないその遊びは半ば強制的で私も少し参加したことがあった。その日のお題は「好きな人ランキング」だった。小学生なのだ。好きな人も嫌いな人も、恋愛感情も全くわからないような状態で早く早くと急かされる。だから「面白い異性」を順に言った。するとクラスメイトはにまにまと笑って「そっか、○くんのことが好きなんだ」とそのまま私はその「好き」という事になった男の子と疎遠になるまでその子のことが好きという設定がついて回っていた。本当はひょうきんで面白いって意味だったのに。言ってしまったせいで迷惑をかけたことがいくつかある。後悔しきれないので公開もしない。

 現在、私は同じような理由で困っている。リスナーに好きなVtuberの話をしたせいで、望んでいない苦痛すぎることが起きていた。詳細は説明するには頭の中で整理がついていないから省くけれども、私とそのVtuberさんは赤の他人で面識がなくただ私が見ているだけなのだ。面白いから。他人の口から不用意にその人の名前が出て茶化されるのはかなり不愉快だ。それをやめさせるには私がその名を口にしないことだ。良いも悪いも好きも嫌いも他人に隠さねばならない。だけどそれで良いのか。たった一つの苛立ちのためにそんなことをする必要があるのか。茶化してくる相手は羽虫みたいなものだろう。それでも嫌だ。

 この記事はきっとリスナーの目にも入る。とりあえずこれでもわからないなら心療内科に行ってこの記事を見せて何が悪かったか考えてくることだ。そう言いたい。すごく。すごく。ムカつくから。

無反応になることが大人になることなら、これは大人のすることでは無いだろう。だったら私は大人でも子供でも呼び名は何でも良いからこの苛立ちをこの記事にぶつけて眠りたい。

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