共に生きている誰もが大切にされている世界を育むとしたら、何が必要でしょうか。【問いを贈ろう】9月2日
今回も、PICES の問いを贈ろうキャンペーンに、勝手ながら note から参加してみたいとおもいます。
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9月2日の「問い」
うーん、壮大だ。問いが壮大すぎて返答に窮してしまう。
だからといって、「全員が全員大切にされる、ってそもそも可能なのか? 無理だよ……理想論もたいがいにしようぜ!」なーんて、ヤボなこというのはイヤだよね。だって、理想論をけなすのって、なんかかっこよさげだけど、実際は、現実に起きてる問題に目をつむる自分をごまかしてるだけだもの。
問いが壮大なので、私の答えも壮大になっちゃう。
ズバリひと言でいうと、
っていうことになるのかなぁ。
ちょっとながくなるけど、ここで、最近の個人的な経験をば。
ずっと五百蔵をフォローしてくれている皆さんはご存知のとおり、私は、うつで障害手帳をもらってます。そのまえは、障害者のための作業所で支援員をしてたから、ケアする方からケアされる方へ、という立場の転換を経験してるんですね。
それだけじゃなくて、この数年は、義母の認知症が劇的に重くなったり、義父も突然体調を崩して自宅で暮らすのが無理になったり、子どもは子どもで楽しく不登校になったり……夫以外の家族全員、社会のメインストリームから脱落しちゃったのですよ。
んで、そーゆー怒涛な日々のなかで、なにを感じてたかというと、
っていうこと。
それはたとえば、自分の過去の仕事ぶりがどうだったか、っていう反省もあるし、夫が両親のために一生懸命やってるんだけど、なんかポイントがズレてる感じするとか。そんなようなところから感じます。
不登校児へのフォローなんて、いやそもそも子どもって未完成なんだから、登校できなくなることもある、って前提で教育システムを組んどくのが筋なんでは?、っていまさらながらに思ってるし。
……というかんじで、このあといろいろ書いてみたんだけど、うまくまとまらなくてぜんぶ消しちゃった……
いまはまだうまく説明できないんだけど、
とにかく、「個人」。そのひと「個人」から出発することに徹する。
「共に生きている誰もが大切にされている世界」を目指すなら、ずっと日本人がやってきた、「集団の求める枠組みに個人を適応させる」から、「お互いニーズを把握しあって、折り合いをつけながらうまくやっていく」に変わってかなきゃいけないんじゃないかと思う。
そのためには、「個人」から出発する、というものの見方を身につけないといけない。
くりかえしになるけど、とにかく「個人」。そのひと「個人」から、ということにこだわらなくちゃいけない、っていう思いがいまの自分はすごく強い。
やっぱりまとまりきらないので、もう、強引に結んじゃうけど。
もちろん、社会の仕組みを整備していく、っていう大きな変革も必要だよ。
だけど、仕組みのすき間で取りこぼされていく困りごとや、個人個人の細かいニーズをすくい上げるのは、やっぱり、たまたま隣にいた誰かの役目だとおもうから。ひとりひとりの常識を変革することも、まけずおとらず大事だとおもう。
「共に生きている誰もが大切にされている世界」ってそんなふうにして招き寄せていくものなんじゃないのかなぁ……
いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。