陰翳礼讃

2020年に入り、大学2年も終わりが見え始めてから、なぜかぐったりした感覚をおぼえる事が増えた。部屋の布団に寝転がって、中空をぼうっと見つめながら、小刻みに騒ぎ出す呼吸を落ち着かせる。脳裏に決まって浮かぶのは、清瀬の電車道。本当に貧乏だった日々が流れ込む。

「社会人に大切なのは、課題発見能力だから」

はじめてOB訪問らしきことをした1月、スーツの男性から言われたその言葉が、心の奥底にずっしり沈んでいる。
僕はこれまでの人生で、少なくない課題をこなしてきた自負がある。貧乏、受験、クイズ、家族のこと......。同世代の多くはしなくて済む苦労を背負って生きてきた。
だのに、「自由にしていい」「課題を見つけて、チャレンジしてごらん」。そういう言葉を聞くたびに、茫然として身動きが取れなくなってしまう。

苦労をしてきた。だからこそ、なのかもしれない。僕のこれまでの人生において、「課題」は当然のように、向こうから我が物顔でやってきて、僕はそこに「立っている」だけで良かった。バッティングセンターのゲームのように、立ってボールにバットを当てるだけ。出塁の必要はない。
課題を見つけられないとはいえ、これを、と思う事が一切無い訳ではない。しかし、体が巧みに囁く。安定した幸福な生活。何かわざわざ「課題」を見つける必要はあるだろうか。そこに喜びはあるだろうか。そこに自由はあるだろうか。

かつての根無し草めいた生活が、幸福だったかは分からない。しかしそれは、何もない故に何にも縛られることはない、何もない故に何も失うものはない。その点で、極度に自由な生活だった。
今はどうだろう。何かがある故にそこに縛られてしまう。何かがある故に何かを失う未来が潜んでいる。
皮肉なことに、かつて脱出をこれ以上なく希求したあの生活が、今では故郷のような郷愁の情を呼び起こす。ただ、立って、打ち返すだけでいい。ノイズもない。リスクもない。ただのセンチメンタリズムだと言われたら、返す言葉も無いのだが。