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取り留めもない妄想

SFだとか厨二的思考を拗らせたことのある人なら一度は思ったことがあろう自分以外の意識について、今なお拗れてる私は度々思うことがある。

それぞれが人生という名の物語を持っていて、価値観の相違で時にぶつかることがある。
もちろんそんなこと当たり前だと理解している。

でも、自分以外の意識の存在を証明するお手軽な方法を私は知らない。

なので、他者には実は感情も何もなくて、自分の存在すら全て誰かの空想の産物なのかも……と考えることがある。

多分映画マトリックスやインセプションの見過ぎ。
とにかく、こういう仮説を立てるのが私は大好き。


世の中で起きる全ての災害や痛ましい事件が全て架空の出来事であったらどんなによかっただろう。

友人や家族と笑い合った大切な思い出も、それを失う痛みも、生きることに対しての漠然とした不安も全て第三者によるシナリオ通りの演出だったら。

辛い体験をするのは物語をなぞらされている私だけで、その外側にいる観測者たちは娯楽として私を消費している。
こいつは哀れだなあと笑いながら幸せな生活を送っている。
もはや一周回ってそうであってほしいかも。

私は何かを信仰しているわけでも、信仰自体に特別な拒絶感を抱いているわけではない前提で考えることがある。

もし、全知全能の上位存在がこの世界を形成して深く広い夢を見せて、自分の思い通りの言動をさせているのだとしたら、何て悪趣味なんだといいたい。

大なり小なりの争いから逃れられない社会の中で、さまざまな憎悪や困難と向き合い続けなければならない。
自分を見失わないように他者と適度に距離を置きつつ工夫しながら生きていかなければならない。

仮にその存在に抗うことができたら?夢の内容にケチをつけて言うことを聞かなかったら?全能感で満たされたものたちの逆鱗に触れたらどうなることか。

ボコボコに捻り潰されるかもしれないし、生きながらの地獄を味わうことになるかもしれない。


これらは日常のドキュメンタリー番組やゲーム。映画に溢れている概念だと思う。

いつも私たちはあくまでも傍観者という態度でコンテンツを消費しながら生きている。
それらに過去のいろいろなことを投影することで自分のあらゆる感情を昇華させているのかもしれない。

現次元でこれが頻繁に行われているなら、もっと高度な次元の観測者が自己投影して私たちの人生を楽しく消費しているという想像もわからなくもないでしょう……?


まあ全てただの妄想なんですが。

そんな荒波だらけの人生の中でも、他者に対して肯定的な感情を少しでも抱く瞬間があったり、生きてもいいかなと感じることがあるこの世界はつくづく面白いなと思う。

しんどいことが多いからこそ楽しい感情が湧くのかもしれない。


そこから派生して、意識や感情って何だ?と思うこともある。
脳の情報伝達は電気信号、遺伝子は4種類の塩基の組み合わせでしかないはずなのに、こんなに色とりどりで数字では表せないような複雑な機微がある意識や感情というものが生まれるのだろうか。

うーーーんわからん!!!!!!
文章は支離滅裂だけどなんてことないことを考えるのは本当に面白い。

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