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第10回の1:イントロダクション

高木完『ロックとロールのあいだには、、、』
Text : Kan Takagi / Illustration : UJT

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY で好評だった連載が復活。ストリートから「輸入文化としてのロックンロール」を検証するロングエッセイ


『ロックとロールのあいだには、、、』は、BEAMSが刊行していた〈インザシティ〉で連載していた企画で、輸入文化としてのロック、ロックンロール、あるいは前衛音楽は、ファッション含め、その時代その時代で日本にどう入ってきてどう捉えられていたかを、当事者に聞きながら書いていく、という企画だった。

これまでに、片岡義男、佐々玲子、鈴木敬子、豊田菜穂子、立花ハジメ、勅使河原季里、赤城忠治、ヒゴヒロシ、レック、中西俊夫、藤原ヒロシ、高橋幸宏、かまやつひろし、石田健司、久保田慎吾(以上、敬称略)――といった方々に、貴重なお話を聞かせていただいた。

2013年から始まって、ここまで全9回の連載時には、一部でかなりの評判も得ていた。それを今回こちらで再開させてもらうことになった。改めてよろしくお願いします。

この連載のきっかけは、川勝正幸さんの逝去だった。ロックやポップ、サブカルチャーを広く日本中に伝えていた川勝さんがいなくなったことは、今の時代における大きな損失だった。川勝さんは音楽、映画、漫画などをジャンルにとらわれることなく広く愛好し、穏やかな態度で紹介、伝えてくれる独自のメディアともいえる人だった。目利きがいなくなってしまった、との嘆きの声が多く湧いた。

目利きがいなくなってしまうと、日本のポップはつまらない方向にいく。

そんなとき、ふと、こう思ったのだ。

川勝さんほど細かく紹介、伝承することは出来なくとも、なんか自分が書き残せることがあるんじゃないか、、、と。

自分が好きになったロックンロールやパンク、ヒップホップには、聴き手ひとりひとりの固有のストーリーや出会いの形が重なっていた。自分がそうだったように、最初はまっさらだったところに、いきなり異空間から送り込まれてくるものだからだ。それにはどんなシチュエイションがあり得るのか、、、

海の向こうの有名な話では、、、

ローリング・ストーンズのミックとキースのバス後部座席における奇跡の出会いしかり、ディランやジョン・レノンがエルヴィスを知り、ロックンロールの虜になる――などなど、枚挙にいとまがない。

電撃的な啓示を受けてのめりこむ話や当時の雰囲気、それは音楽だけに限定されない。髪型や着てるものをも含む、すべてだ。すべてが影響されて、変化する。

それが、日本ではどうだったか、、、日本は割とアーカイブが薄いのだが、それでもところどころで面白い話があったりする。

例えばこんな話がある。

中西俊夫は1982年にマンハッタンでまだリリースする前の「プラネット・ロック」をライブで見ている。当時はヒップホップという言葉も定着していなかったか、人々がようやく耳にし始めた頃だ。ロックバンドをやっていた自分は帰ってきたばかりの中西トシちゃんにどういう感じかを聞いた。

アタマでさ、くるくる回るんだよ!

え? アタマ?

次回オリンピックの正式種目を、自分が最初に知った瞬間である。

中西トシちゃんが初めて見たアフリカ・バンバータの感想は、黒人がテクノをやる! ダンス・ミュージック! ファッションは遅れてきたパンクってかんじでちとダサい! だったが、新しい何かに出会った衝撃はかなりでかかったのと、何より客のダンス、つまり「ブレイクダンス」に圧倒されたようだった。

当時の中西はプラスチックスを解散し、新たなニューウェーブ・ポップを作ろうとしていた時期だったのだが、その座標は、よりダンス・ミュージックに近づいていく。その数年後に彼は僕とメジャーフォースを始めることになるのだが、それはまた別の話。

それはさておき、面白いのは中西俊夫がブレイクダンスを見た場所は〈ペパーミント・ラウンジ〉であった、ということだ。

同店は、もとは1958年から1965年までオープンしていたというクラブで、ツイスト・ブームを作り上げた店として知られていた。その後売却などを経て、1980年代初頭はニューウェーブ、オルタナティブのアーティストが演奏するクラブとなった。60年代にはビートルズも遊びに寄ったことで知られているが、ツイスト・ブームの頃に面白い話がある。当時小林旭がツイストをその店で知り、日本に持ち帰ったのが、日本における同ブームのハシリ、らしい。そしてその20年後、中西俊夫がブレイクダンスを同じ店で知る。

(つづく)


高木完
たかぎ・かん。ミュージシャン、DJ、プロデューサー、ライター。
70年代末よりFLESH、東京ブラボーなどで活躍。80年代には藤原ヒロシとタイニー・パンクス結成、日本初のクラブ・ミュージック・レーベル&プロダクション「MAJOR FORCE」を設立。90年代には5枚のソロ・アルバムをリリース。2020年より『TOKYO M.A.A.D. SPIN』(J-WAVE)で火曜深夜のナビゲイターを担当している。

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