見出し画像

第二十三回:『夢幻の80's』

堀口麻由美『カルチャー徒然日記』
Text & Photo:Mayumi Horiguchi

80年代の日本が夢見て失ったもの


西武池袋本店。近くにはビックカメラとヤマダ電機がある=2023年9月17日、東京都豊島区

1980年代という時代には、もちろん良い面も悪い面もあった。当時を生きた者として、良いことばかりだったとは、とても言えない。しかし本稿では、良かった物事についてだけ、語ることにしよう。

80年代とは、間違いなく、「カルチャー」が日本に花開き、しっかりと根づき始めた時代だった。日本の80'sカルチャーは、糸井重里による西武百貨店の広告キャッチコピーが象徴している。糸井は、矢沢永吉の自伝本『成りあがり』の構成と編集を手がけた“陰の立役者”だ。この本は1978年に初版が発行され、ベストセラーとなった。1980年からはサブカルチャー誌『ビックリハウス』の読者投稿ページ「ヘンタイよいこ新聞」の編集を担当。そして、コピーライターとして西武百貨店のキャッチコピー「不思議、大好き。」や「おいしい生活」を世に放ち、日本人の認識をガラリと変えた。コピーライターはブームとなり、広告業界は「お洒落」とみなされ、皆が就職したがるようになった。

西武百貨店を含む「セゾングループ」の創設者は堤清二。辻井喬というペンネームで作家や詩人としても活躍した人物だ。「モノだけでなく文化を売る」流通系の企業グループとして、セゾンは大いに盛り上がっていた。西友ストアー、“ノーブランドというブランド”である無印良品、パルコ、ファミリーマート、出版も手がける書店リブロ等を立ち上げていた。セゾンのおかげで、日本は文化的に先へと進んだ。西武池袋本店は「素敵な文化空間」として流行り、堤は“セゾン文化という革命をおこした男”と呼ばれた。筆者も、本店内にあったリブロ池袋本店(2015年7月20日に閉店)には80年代から90年代にかけて行きまくったし、セゾン美術館で開催された数々の先鋭的な展覧会を堪能したものだ。

プログラム・マガジン「CINE VIVANT」第1号(1983年11月19日発行)に掲載された西武美術館の広告。

グループの企業が運営していた「六本木WAVE」も忘れられない。1983年11月18日(金)にオープンしたWAVEは、ビル1棟が丸ごと文化発信基地であるかのような存在だった。現在の六本木ヒルズあたりにあり(六本木6-2-27という住所だった)、多彩なCD、レコード、映像パッケージなどが手に入る場所で、カルチャー好きにはたまらなかった。7階建てのビルは3つのパートに分かれていて、1階から4階が世界各国の音楽が並ぶレコードショップ、5階から7階が録音やコンピューター・グラフィックス用のスタジオ、地下1階がミニシアターの「シネ・ヴィヴァン・六本木」だった。同館の映画セレクションは素晴らしく、何度も通ったものだ。なお映画館とWAVEは1999年12月25日(土)をもって閉店し、跡地は六本木ヒルズメトロハットになっている。

「シネ・ヴィヴァン・六本木」のオープンを伝えるチラシ

80年代後半には、「バブル」が日本を沸かした。バブル景気とは、1986年12月から1991年2月頃までの期間を指すのだが、日本の国中が、そんなバブルに踊らされた。株価や不動産価格が上昇し、個人資産も増えた。国民全員がかつてない好景気を実感した時期だった。「バブルだったけど、そのわりに自分は儲かってなかった、恩恵なんてない」と称する人でさえも、社会全体を覆うバブルな空気については、否定できなかった。その時期の「一般的な若者」の話をすると、東京の街には、ポロシャツの襟を立てた男子大学生が溢れていた。女子大生ブームの頂点はもう過ぎていて、世間の関心は女子高生へと向いてはいたが、1985年に男女雇用機会均等法が制定されたこともあり(施行は1986年)、女子大生にもまだ存在感はあった。音楽やアート好きな人種について語ると、パンクやニューウェーブ系のファッションでキメたりして、クラブやライブハウス、ミニシアターに通ったりしていた。筆者はその当時、バンドをやっていた。青山学院大学の音楽サークルである『英国音楽』のメンバーを中心に構成された女性スカ/ロックステディバンド、ザ・ドロップスの初代ヴォーカリストだったのだ。筆者の周辺では、バンドをやったり劇団に属していた大学生や専門学校生が結構いっぱいいた――いや、そういう人とばかりつるんでいた、と言うべきか。当時のユースカルチャー・シーンでは、70年代に誕生したパンクの魂が「基本」になっていたからだろう。80年代中期~後期の東京インディー音楽シーンでは、自ら楽器を演奏するだけでなく、フライヤーやZINEも手作りするなど、「DIY精神」が発揮されていた。サークル『英国音楽』でも、同名のZINEを作っていた(※当時は「ミニコミ誌」と呼称)。ざっとまとめると、ブランド品などを買い漁る行為すらも含めて、「文化的」であることが素晴らしいと皆が認識した時代、それが80年代だったといえよう。

『CUTIE 別冊宝島キューティVOL.2』(1988年7月31日発行・JICC出版局)に掲載されたザ・ドロップス

2023年のいま、事情は全く変わった。「そごう・西武」の終焉は、80年代を強烈に懐かしいものとして思い出させると同時に、先行きの暗さを、否応なしに彷彿させる。

昨年2022年11月、「セブン&アイ・ホールディングス」は傘下の百貨店「そごう・西武」を米投資ファンド「フォートレス・インベストメント・グループ」に売却すると発表した。この売却案では、ファンド側が「ヨドバシホールディングス」と提携し、ヨドバシカメラの出店に合わせて、西武池袋本店の地下1階と1階を含むフロアの構成を大きく変える方針を示していた。池袋本店は単体で見ると黒字を確保していたため、「そごう・西武」の労働組合がこれに猛反発。セブンに対し「完全な雇用維持」と「百貨店事業の継続」等を求め交渉を続けたが、決裂。そのため同店は8月31日に、大手百貨店では約60年ぶりとなるストライキを決行し、全館が臨時休業となった。だがストライキの最中に売却は決定。セブンは9月1日、同日付での売却が完了したと発表した。実質譲渡額は8500万円という安さだった。セブン側が見積もった「そごう・西武」の企業価値2200億円から、同社の有利子負債である約2000億円を差し引き、運転資本にかかる調整などを経た株式譲渡価額が、8500万円なのだという。あの広さ、あの立地なのに……哀れなぐらいの安さに、泣けてくる。

プログラム・マガジン「CINE VIVANT」第1号(1983年11月19日発行)の表紙。「シネ・ヴィヴァン・六本木」では会員制度を設けており、会員になるとこの冊子が無料で郵送されるなど、各種の特典があった

「そごう・西武」の今後の姿は、未来の日本の姿をも重ねて、我々に見せてくれるのかもしれない。例えばイランでは、1925年に最後の王朝であるパフラヴィー(パーレビ)朝が成立し、1979年にイラン革命が起こるまで続いていたが、その期間のイラン女性のファッションは、西洋女性と大差なかったのだ。現在のイランからは想像もできないかもしれないが……。日本もイランみたいに、また80年代以前に、時代が後退するかもしれない。そうなった方が嬉しい人たちもいるのだろうが、私としては、望まない。常に前進していきたい。

池袋駅から見える西武池袋本店とビックカメラ、ヤマダ電気を、ぜんぶ合わせて一挙に眺めながら、そんなことを考えた。

(終わり)

今回が最終回です。ご愛読ありがとうございました。


堀口麻由美
ほりぐち・まゆみ。
Jill of all Trades 〈Producer / Editor / Writer / PR / Translator etc. 〉『IN THE CITY』編集長。
雑誌『米国音楽』共同創刊&発行人。The Drops初代Vo.





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?