見出し画像

第十六回:イントロデューシング(なのか)

川崎大助『スタイルなのかカウンシル』
Text & Photo : Daisuke Kawasaki

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY で好評だった連載が復活。「音楽誌には絶対に載らない」音楽の話、その周辺の話など


この妙なタイトルのエッセイは、そもそもは〈インザシティ〉誌で連載していたものだ。写真特集など特別号を除いたすべてのイシューに寄稿した。このウェブ版では、時折登場する立場とでも言おうか。当面は、その月に「第5水曜日がある」場合にのみ、書かせていただく。つまり今月、2021年12月のような月の、最後の水曜日に、ポップ音楽周辺のよもやま話をお届けしてみたい。

さてところで、当エッセイのタイトルだ。言うまでもなく、これはスタイル・カウンシルからの引用なのだが、「なのか」と付いているのには、理由がある。ポップ音楽周辺の「スタイルだかなんだかわからない」ものの分析をおこなっていく、というのが、元来のこのエッセイ連載の主旨だったからだ。

たとえばバンドTは、ときにレコード・ジャケットのデザインよりも重要なのだが、その起源とは?といったような、話題だ。あるいは、なぜラモーンズは、前時代的なキャンバス・スニーカーを「制服」として採用したのか? そもそもロッカーが「夜中でも室内でもグラサン姿」でいいことになったのは、なぜ? 一体いつからのことなのか?――といったようなことを考察しては、その都度書いてきた。

音楽の核心ではない、周辺といえば、周辺の話だ。しかしたとえば、その音楽家について語るとき、その人物が写真や動画内で着用している洋服について考えないで、なにをどうすることもできないじゃないか――というタイプのアーティストだってかなり多くいるのは、歴然とした事実だ。さしずめスタイル・カウンシルは、その典型のひとつだったと言っていい。ゆえに僕は、彼らの名に「なのか」を加えることで、タイトルとした。

当ページ冒頭に掲げた写真について述べよう。これはスタイル・カウンシルのレコード・ジャケットだ。作りとしては12インチのEPなのだが、(ほとんど語義矛盾なのだが)自称「ミニLP」とされている1枚だった。原題は『イントロデューシング・ザ・スタイル・カウンシル(Introducing the Style Council)』、そして邦題は――さっき帯をあらためて見て、いまごろ初めて知ったのだが――(収録曲の曲名からとった)『スピーク・ライク・ア・チャイルド』となっている。全7曲、およそ31分強のランニング・タイムだった。これは彼らのデビュー年である83年の夏すぎに、イギリス以外の諸国でリリースされたもの。すでにシングルを3枚、EPも1枚(『ア・パリ』)発表していた彼らが、翌84年のアルバム・リリース前に一度軽く「立ち上がりの瞬間」を総まとめしてみたような、そんな内容のものだった。そして日本盤だけが、この「お花畑ジャケット」だった。

このジャケット写真のポール・ウェラーの緑色のシャツとホワイト・ジーンズ姿を、僕は真似した憶えがある。腰に巻いているセーターも、真似したかもしれない。『ア・パリ』流れの、ウェラーのダーク・カラーのジャケット(+タルボットのダブル・ブレスト紺ブレ)という国際盤ジャケよりも、僕は日本盤のこの「隙だらけ」の格好のほうが、このときの彼ららしいような気がしていたのだろう。風通しよさそうなところに、なにか心地よさを感じたのかもしれない。

こちらが国際盤(日本以外の国での)ジャケット

スタイル・カウンシルの出発地点は、どうにもこうにも、面倒臭いものだった。人気絶頂どころか、イギリスの国民的バンドとして君臨し続けている最中だったザ・ジャムを、82年の終わりに突如解散させたポール・ウェラーが始めた、言うならば「考え落ち」のような音楽ユニットこそがスタイル・カウンシルだった。最終盤期ジャムのソウル路線の延長線上にある音楽性はまあいいとして、「バンドではなく、固定メンバーは2人だけ」のユニット構造というアイデアも、いいとして――なんと言っても物議をかもしたのが、服装と写真(とスリーヴ・デザインのタッチ)だった。「それでいいのかよ!」との声を集めた。とくに、イングランドにいくらでもいた「ジャムに忠誠を誓った」野郎どものあいだから、そんな声が湧き上がった。アニキ、一体どうしちまったんだよ!?と。

なぜならば、よくも悪くも、ジャムとは「モッド・リヴァイヴァル」のバンドだったからだ。ジャムがいなければ、たぶんおそらく、モッズという風俗は、70年代終盤にあそこまで復活しなかった(だから、その後の「定着」も、ジャムがなくしてあったかどうか)。なのに、紺ブレに横ストライプTに、肩に赤セーター(イギリス人の言う「ジャンパー」)巻いて「おパリにて」だけでもアレなのに、お花にまみれて、なにニヤついてるんだよ!……と。「それでもモッズなのかよ!」という血の叫びが、きっとあったに違いない。

初EPだった『ア・パリ』

なぜならば、(ここが考え落ちなのだが)ウェラーはそんな効果をこそ狙い、とくにこの初年度のスタイル・カウンシルを運営していた様子だったからだ。彼がこう言ったとの報道があった。「パリに行って、あんな写真を撮るのは、見た人をいらいらさせたいから」だと――要するに、強引に「モッズ脱却」を狙うのだ、と。短気で短慮な若者ではなく、ちんぴらではなく、より成熟した大人として、ソウル音楽の豊穣な海へと船を漕ぎ出していくのだ。その決意としての「スタイル変更」なのだ……とまあ、僕はそう理解していた。彼が言ったとおりに(だからその心意気を買って、「モッズではない」ウェラーのスタイルの真似をした)。

などという僕の考えが、たんに思い込みでしかないことが証明されたのは、セカンド・アルバム『アワ・フェイヴァリット・ショップ』(85年)がリリースされたころ、だったろうか。大ヒットした同作は、その名のとおりスタイル・カウンシルの2人が、まさに「僕らの好きなモノ」を並べただけのようなメンズ・ショップ店内にいる姿がジャケットにおさまっていた。ウェラーの髪型は、まるで『巨人の星』の花形満みたいなことにもなっていた。「なんや、結局それら全部、普通に好きなだけやったんかい!」など、僕は突っ込んだかもしれない。

同年、理想に燃えていた(はずの)ウェラーが設立したインディー・レーベル〈レスポンド〉も頓挫した。すでに同時代の音楽よりも60年代のもののほうをより多く聴くようになっていた僕は、スタイル・カウンシルのいいリスナーではなくなっていた。だからこのころから日本でどんどん人気が上昇していった彼らが、なにやら「おしゃれな着こなしをした、おしゃれな洋楽」の代表選手として遇されていくのを、距離を持って傍観するようになっていった。

僕にとってのスタイル・カウンシルとは、決して「おしゃれ」なものではなかった。失敗することが必定だろう考え落ちと、自分の好きな服装でいることにすら「意義ありそうな言い訳」をつい考えてしまうような、古臭い古臭い「モッズ上がり」のウェラーの、青春の碑にほかならなかった。彼が20代の半ばを迎えるにあたって一度は道に迷い、しかし「迷いながらも」その先へ進もうと、道なき道を切り開こうとしたときの不安および、胸中に満ち満ちていただろう「いまからどこへでも行けるんだ」という、自由にして青雲なる志の象徴としての音楽が、そこにはあった、はずだった。

青年期後期へと向かっていく、ということは、「若さで押し切るわけにはいかない」世界へと突入していくことを、意味する。人によっては、その先何十年も続いていく、長く平坦なる「大人の戦い」に身を投じることにも、つながっていくわけだ。だからこそ、83年から85年のウェラーが「やったこと」とその周辺事例は、10代の終盤を迎えようとしていた当時の僕にとって、勇気と希望の灯火のようにも見えていたのかもしれない。

近年のポール・ウェラーは「モッド・ファーザー」なんて呼ばれることも多い。僕はその翻案語として「旧車會ロックの首領(ドン)」と評することもある。つまり、当稿でフォーカスした時期の「ゆらぎ」から、言うなれば本道へと回帰して、そのまま定着したという感じだろうか。しかし人はだれもが「二度とは戻ってくることはない」季節を歩いていく時期があるのだ、という意味の記録として、古いレコードを並べてみた。


川﨑大助
かわさき・だいすけ。作家。
その前は雑誌『米国音楽』編集長ほか。
おもな著書に長篇小説『東京フールズゴールド』、評伝『僕と魚のブルーズ 評伝フィッシュマンズ』、翻訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生』など。
光文社新書「教養としてのロック」シリーズ(『名曲ベスト100』『名盤ベスト100』)の最新作として、パンク・ロックの連載を開始。Yahoo!ニュース個人オーサー。 「
教養としてのパンク・ロック」 https://shinsho.kobunsha.com/m/mc6097c127658
Twitter:@dsk_kawasaki(https://twitter.com/dsk_kawasaki


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?