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夏休みの読書感想文『徒然草』考 その3

【色好まざらん男は いとさうざうしく】

遊び人(仕事もせんと、つれづれなるままに好きなことばかりしてる人、ってほどの意味だからね)で、厭世観がウリの兼好にとっては不本意なことかも知れないけど、『徒然草』が日本の中世文学を代表する随筆であることは誰もが認めるところなんだよね。
中学・高校の教科書にも掲載されていて、ほとんどの人が少年期から「教材」としての『徒然草』には触れているはず。
でも、教材として取り上げられる段は文体が美しいとか、含蓄に富むとか、または文法を学ぶために適当なものなどで、非常に限られた範囲でしかないんだよ。
『徒然草』全243段を通読してみるとわかるけど、むしろ教科書で取り上げられることのない段にこそ『徒然草』というか、卜部兼好の魅力が詰まってるんだよ、これが。
随所に兼好の朝令暮改的節操のなさが見え隠れしているし、鼻持ちならないほど高慢で、時々いい加減なことを書く。そのうえ女好きでもある。
そこには生身の兼好がいるんだよ。僕の好きな兼好がね。

兼好の恋愛観というか、女性観というか、言ってしまえばエロスに対するスタンスのようなものが露骨に現れるのが第三段だね。

【第三段】
よろづにいみじくとも、色好まざらん男は、いとさうざうしく、玉のさかづきそこなき心地ぞすべき。

 露霜つゆしもにしほたれて、所定めずまどひ歩き、親のいさめ、世のそしりをつゝむに心の暇なく、あふさきるさに思ひ乱れ、さるは、独り寝がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ。
 さりとて、ひたすらたはれたるかたにはあらで、女にたやすからず思はれんこそ、あらまほしかるべきわざなれ。

『徒然草』第三段

(Be訳)
あらゆることに通じ、抜群の能力を持っていたとしても
「女なんか興味ないし」
と言うような男は実にしょうもない奴や。喩えてみたら”底の抜けた水晶の杯”みたいなもんで、見かけ倒しの役立たずや。

朝露や夜霜に濡れそぼりながらあてどなく歩き回てて、親の忠告や世間の嘲笑も気にせえへん。
あれこれと思い悩みつつも、独り寝に悶々として眠れへんゆーのも、またおつなもんやなあ。
ほんでも、単なる色情狂っちゅーのとちごうて、女性に
「ああ、なんてシュッとしたはる殿方やのん。一度は抱かれてみたいわあ。せやけど、なかなか落とせそうにないお方どすなあ」
とか思われるのが理想と言えば理想やな。

などと、ニヤニヤしつつ(知らんけど)書いてる。

【世の人の心惑わすこと 色欲に如かず】

また名文の誉れ高い【第七段】では

あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山とりべやまの煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば…

『徒然草』第七段

と格調高くこの世の無常を詠いあげながら、その舌の根も乾かぬうちに、続く第八段で

【第八段】
世の人の心惑こころまどはす事 色欲しきよくにはかず。
人の心は愚かなるものかな。

匂ひなどは仮のものなるに しばらく衣裳きぬも薫物たきものすと知りながら えならぬ匂ひには 必ず心ときめきするものなり。
九米の仙人の 物洗ふ女のはぎの白きを見て つうを失ひけんは まことに 手足・はだへなどのきよらに 肥え あぶらづきたらんは 外の色ならねば さもあらんかし。

『徒然草』第八段

(Be訳)
人を狂わせるものの中で、色欲に勝るものはないわ。
まったく人間っちゅうのはアホな生き物や。

女の匂いちゅーても、それは衣装にたき込めたお香の香りやから、そのうち消えてまうねんけど、やっぱクラクラしてまうよなあ。
久米の仙人はんが、洗濯しているオナゴの白いふくらはぎを見て興奮し、神通力を失のおてしもたていう笑えん昔話があるけど、エエ感じに脂が乗った二の腕やふくらはぎのエロさは情欲をかきたてよるなあ。仙人も男てことや。
て、書いてる。
この落差はどうだ。
こんな別人が書いたかのような話を平然と書くのだよ。
文体こそ格調高いけど、単に男(自分)のスケベっぷりを言い訳しているに過ぎないんじゃないのか。
僕が兼好をして「無節操のかたまり」というのは、そのあたりのことを言うのだ。
さらに次の段では

-略-
まことに 愛著あいぢゃくの道 その根深く みなもと遠し。
六塵ろくじん楽欲げうよく多しといへども みな厭離えんりしつべし。
その中に たゞ かの惑ひのひとつ止めがたきのみぞ 
老いたるも 若きも、智あるも 愚かなるも 変る所なしと見ゆる。

『徒然草』第九段

(Be訳)
まことにもって愛欲っちゅうのは根が深く絶ちがたいものやなあ。
どんだけ六根を清浄したとて、その中で愛欲の迷いだけは捨て去れるものやないで。
これは老人も若者も、カシコもアホもみな変わるところはあれへん。

と、第八弾を補完するようなことを悪びれもせずに書いてるし、「しゃあないやん。心と体が反応してまうんやから…」と開き直っているようにも見える。でも僕はこういう兼好が結構好きなんだよ。
「厭世的」・「無常観」・「もののあはれ」は、兼好を語る際のキーワードだけど、やっぱり「スケベ」も加えるべきワードだと思うな。

さて兼好、女性にとって聞き捨てならぬことも言っているよ。今なら大炎上間違い無しだ。

といふものこそ、をのこの持つまじきものなれ。

【第百九十段】
といふものこそ、をのこの持つまじきものなれ。「いつも独り住みにて」など聞くこそ、心にくけれ、「誰がしが婿に成りぬ」とも、また、「如何なる女を取り据ゑて、あひ住む」など聞きつれば、無下に心おとりせらるゝわざなり。ことなる事なき女をよしと思ひ定めてこそ添ひゐたらめと、いやしくも推し測られ、よき女ならば、らうたくしてぞ、あが仏と守りゐたらむ。たとへば、さばかりにこそと覚えぬべし。まして、家の内を行ひ治めたる女、いと口惜くちをし。子などで来て、かしづき愛したる、心憂こころうし。男なくなりて後、尼になりて年寄りたるありさま、亡き跡まであさまし。

いかなる女なりとも、明暮あけ添ひ見んには、いと心づきなく、憎かりなん。女のためも、なかぞらにこそならめ。よそながら時々かよひ住まんこそ、年月経ても絶えぬ仲らひともならめ。あからさまに来て、泊り居などせんは、珍らしかりぬべし。

『徒然草』第百九十段

(Be訳)
女房なんか男は持ったらあかんねんで。
「いつも一人暮らしやで」とか聞くとカッコええと思うし、「どこかの婿に入った」とか、「どこそこの女を嫁に迎えて一緒に住んでんねん」とか聞くと、ガッカリしてまうわ。
大したこと無い女をエエと思い込んで一緒に暮らしてたら「センス悪ぅ」と思うし、エエ女やったら「仏様や!」ゆーてアホみたいに大切にしとるんやろなあて。
ましてや、家事を切り盛りしとる女なんか、めっちゃ嫌やわ。子どもが生まれて、溺愛しとるんも残念やな。男が死んだ後、尼さんになって年を食ってく様子も見苦しいわ。

どんな女でも毎日一緒に暮らしとると、飽きてしもてウザくなるやん。それって女にとっても虚しいことやん。せやから時々通ってくるっちゅーのが、お互い長持ちする秘訣なんちゃうん。
たまに泊まるから興奮するんやて。

はい。兼好はこういう奴です。
決して教材になるような立派な人間じゃありません。でも教材になんかなりたかったわけじゃないよなあ、兼好。
多分兼好は教科書に載ることを嫌がってると思うよ。
あ。念のために言っておくけど、兼好は決して女性を蔑視してはいなかったんだよ。いずれ取り上げるけど、兼好の女性に対する憧れや敬意もちゃんと『徒然草』には残されてるからね。
要は屈折してたんだよ彼は。正直に女性を称賛することをダサいと思ってたんだと思う。
まあ、カワイイっちゃカワイイ男ですよ吉田兼好は。

(この段、しまい)

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