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夏休みの読書感想文『徒然草』考 その2

さて、兼好法師は多くの僧侶を諧謔と風刺を織り交ぜて描いている。
『徒然草』が1330年から1331年頃にまとめられたとする説をとるならば、1283年生まれの兼好は当時40代後半ということになる。
30歳の頃から僧籍にある兼好が、『徒然草』の中で自戒の念を込め「僧侶いじり」をしたとしても不思議ではない。事実、そうした見方をする研究者もいる。だが、それは買い被りすぎだ…と思う。
自戒などというものには馴染まない腹の据わった男なのだから。しかも自信家だ。『徒然草』の中では時々殊勝なことを書いてはいるが、それはポーズに過ぎない。
「何を根拠にそう言い切れるんだ?説明しろよ」
と激オコの人もいるかも知れないが、うるさい。わかる者にはわかるのだ。
まあ、そんなことはどうでもいい。
私は『徒然草』の行間から立ち上がってくる、生身の男としての卜部兼好が好きなのだ。

では、つれづれなるままに兼好と戯れてみる。兼好お得意の僧侶イジリだ。

『徒然草』第五十三段

これも仁和寺の法師、童の法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔ひて興に入る余り、傍なる足鼎を取りて、頭に被きたれば、詰るやうにするを、鼻をおし平めて顔をさし入れて、舞ひ出でたるに、満座興に入る事限りなし。

『徒然草』第五十三段
鼎(かなえ)

「足鼎(あし‐がなえ)」〘名〙 足が三本付いている金属製の容器。鼎とも。
※「鼎(てい・かなえ)」とは青銅の器に一対の耳と三本の脚を付けたものであある。耳は棒を通し、持ち上げるためのもので、足は下から火を焚いて中の肉類などを煮るためのものである。
古代中国で、王権の象徴として重視され、礼器のうち最も尊ばれた。
「鼎談(ていだん)」=三者が鼎の脚のように向かい合い会談すること。
「鼎立(ていりつ)」=三者が互いに向かいあって立つことの意。
「鼎(かなえ)の軽重を問う」=
 1.統治者を軽んじ、これを滅ぼして天下を取ろうとする。
 2.人の実力を疑って、その地位をくつがえそうとする。また、人の能力を疑う。
 ※晋の景公を破って心のおごった楚の荘王が、無礼にも周の宝器たる九鼎の大小・軽重を問うた故事による。

どこぞの蘊蓄より

【Be訳】
またまた仁和寺の坊さんの話である。
寺で面倒をみていた若い衆がいよいよ僧籍に入ることになった。
そこで周囲の僧たちが「出家記念大パーティー」を開いてくれた。
それぞれに一発芸などを披露して馬鹿騒ぎをしていたのだが、お調子者の僧が酔った勢いで近くにあった鼎(かなえ)を頭にかぶり、全力でウケ狙いに走った。
その鼎は小さかったので、なかなか頭が入らなかった。入らなければスベることになる。しかし関西人はここ一番の笑いを取りにいった時に「すべる」ということを極端に恐れる生き物なのだ。
なんとしてもスベりたくない僧は、鼻がつぶれるのも構わず、鼎を強引にかぶった。
入った。やればできるのだ。
僧が得意になって踊り出すと、全員大爆笑。これはハネたね。

鼎を被る

しばしかなでて後、抜かんとするに、大方抜かれず。酒宴ことさめて、いかゞはせんと惑ひけり。とかくすれば、頚の廻り欠けて、血垂り、たゞ腫れに腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪へ難かりければ、かなはで、すべきやうなくて、三足なる角の上に帷子をうち掛けて、手をひき、杖をつかせて、京なる医師のがり率て行きける、道すがら、人の怪しみ見る事限りなし。
医師のもとにさし入りて、向ひゐたりけんありさま、さこそ異様なりけめ。物を言ふも、くゞもり声に響きて聞えず。「かゝることは、文にも見えず、伝へたる教へもなし」と言へば、また、仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母など、枕上に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんとも覚えず。

『徒然草』第五十三段

【Be訳】
しばらく踊り狂って満座を沸かすことに成功して僧が「よっしゃ。これくらいでエエやろ」
と、鼎を取ろとしたところ、さあ大変だ。頭方顔面にかけてピッタリとフィットしてしまった鼎はビクともしないではないか。
何とか外そうと焦る僧の姿を見て、宴会にしらじらとした空気が流れ始めた。
あれこれ外す方法を試してはみるのだが、これがまったく外れそうもない。それどころか首のまわりが腫れ、おまけに皮膚が裂けて流血し始めた。
遂には息をするのも不自由なほどになってしまった。
そこで最後の手段とばかりに鼎を叩き割ろうとしたのだが、悲しいことにこれが信じられないくらい頑丈で割れない。無理もない、鼎は青銅製なのだ。
頭にかぶった青銅の鼎をガンガン叩かれたらたまったものではない。耐えられないほど響くからやめてくれと言う。
こうなると、もうお手上げだ。仕方がないので鼎の三つの足に薄い衣をかけて隠し、片手に杖を持たせて京都大学付属病院に連れて行くことにした。
だが恰好が恰好だけに、道中では集まってきた野次馬たちから変態扱いを受けてしまった。

病院に着いた。
僧が医者と向かい合う姿は実に異様だった。正直爆笑もんだった。
しかも僧の話す言葉は鼎の中でくぐもってしまい意味不明である。
医者は
「堪忍しとくなはれ。こんな症例、医学書にも載ってへんし研究かてされてまへんねん」
などと言って匙を投げる始末だ。
仕方がないので、その姿のまま仁和寺に戻ったのだが、友達や年老いた母親も枕もとで嘆き悲しむばかりで手の施しようもない。
僧もすでに諦めの境地に至っているのか、全く反応しなくなっていた。

かゝるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらん。たゞ、力を立てて引きに引き給へ」とて、藁のしべを廻りにさし入れて、かねを隔てて、頚もちぎるばかり引きたるに、耳鼻欠けうげながら抜けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。

『徒然草』第五十三段

【Be訳】
途方に暮れていると、ある男が、
「耳や鼻くらいどないしたっちゅうねん。そんなもん千切れても死なへんわい!肚くくって、力任せに引っ張ったらんかい!」
と言った。
人ごとだと思って無茶を言うものだ。
しかしこのままではどうしようもない。危険だが、その方法に最後の望みを託すことにした。
肌と鼎の隙間に藁を突っ込み、これ以上余計な怪我をしないよう準備した上で、首が引きちぎれるかと思う程強引に引っ張った。
するとどうだ、鼻や耳はズタズタになり穴が開いたようになってしまったが、鼎は見事に外れた。
僧はかろうじて命拾いをしたわけだが、その後しばらく寝込んでしまったらしい。

と、まあこんな事を書いている。
描写の細やかさからすると、兼好の目の前で起きた出来事なのかも知れない。
事件の舞台となった仁和寺は、兼好の隠棲地からほど近いところにあることから、その酒宴に参加していたとしても不思議ではない。
流血の大惨事だというに、

道すがら、人の怪しみ見る事限りなし。
医師のもとにさし入りて、向ひゐたりけんありさま、さこそ異様なりけめ。物を言ふも、くゞもり声に響きて聞えず。「かゝることは、文にも見えず、伝へたる教へもなし」と言へば・・・

『徒然草』第五十三段

という記述からは、兼好の肩をプルプルと震わせているの姿が目に浮かんでくるのだ。
兼好にとっては「もののあはれ」も度を越すと「おかしみ」に転じるのだろう。
『徒然草』は西行の『山家集』、鴨長明の『 方丈記』とならぶ隠者文学の代表作と言われるが、兼好自身にしてみれば「ケッ!」と笑い飛ばしたくなる評価なのかも知れない。

この段、しまい


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