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高野友治こそ草の中の聖なり

高野友治師が著わしし『御存命の頃』に、かかる言葉あり。

私は冬の夜おそく、戸をとざした家の中で、地に引きこむような静かな念仏を聞いていると、大和の本心に接したような感じがするのだ。往古からのもろもろの霊が、夜の闇の中で黙って聞いているような気持ちになる。
そして教祖もこのリズムの中に、御成長なされたことを考えるのである。

『御存命の頃』

心に沁み入りしこの言の葉、師の瑞々しき思い溢れいづる一文なり。
高野師、大和の地這ふべくし伝承を蒐集せり。
その業績を愛でし二代真柱、師を「屑屋」と呼びき。
げに高野友治師こそ「聖なる屑屋」なり。
二代真柱、教義を徹底せる実証主義に基づきてまとめ、口伝、伝承の類いを極力排すれど、高野師の蒐集せる伝承精査し、お伽物語やうなるもの排しし鑑みもこそ。
高野友治師の残しし書物など向後なほ究むべき一級の資料ばかりなり。
教学極めんとする拡がりが、口伝、伝承の辿り極めに向かふことを願ひてやまず。
高野師が教祖の高弟なる辻忠作の娘より聞き取りせる物語に「歌うたふ教祖」と題せられし次のものあり。

ある夕方、こかんが夕飯の支度をするために米櫃の蓋をとって見ると、底には米がほんの少ししか残っておらなかった。底をすくうて枡で計ると六合あった。一升の米がなければ家族の者が食うていけなかった。
「お母さん」
こかんは教祖を呼んだ。
「米が六合はっちゃあらへん」
「六合はっちゃなけら、六合はっちゃ炊いておきや」
教祖はそう答えられた。
米を手桶に入れたまま、こかんは明日どう食うていこうかと考えた。物足りない寂しさがあった。
考えていると、奥の教祖の部屋から陽気な歌が聞こえてきた。その歌は、
「米櫃の米はかすれても 北側の細川の水は絶えんで」
のびのびとしたお声だった。陽気な響きであった。米がなかったら家の裏を流れる小川の水を飲んでいきていけ、というお言葉だった。たとえ米櫃に米が無くなろうと、家の北側の細川の水は滾々と流れて絶えることはない。人間は米のみに頼らんでも、水を飲んでも生きていける。水一滴の中にも無限の神様の恵みがこもっている。いかなる貧困の中にあろうと、神の恩寵は常に変わることなく天地に充ち満ちている。そんな深遠な意味が、この一連のお言葉の中に含まれているのだった。 

高野友治『御存命の頃』(139―140頁)より

『稿本天理教教祖伝』にいとよく覚えし記述がありて、その元となりし聞き書きなるもこそ。
かく、高野師が大和の地にて畦道這うごとく集めし伝承よりは、さやに教祖のお姿目に浮かびぬ。
高野友治師。彼こそ草の中の聖なり。

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