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ひながたの同行者「中山こかん」考

序に代えて 僕の中山こかん像

noteで雑文を書き始めて以来、いつか”中山秀司・こかん兄妹”について書きたいと思い続けてきたのですが、あまりにも資料が乏しいため書きあぐねていました。加えて「こかんの何について書きたいのか?」と自問した時、それすらも判然としなかったのですから、書けなくて当然でした。
しかし前2作でこかんの兄である秀司について思いつくままに書き散らしたことで、結局僕は”そばな者”の人間的な部分。つまり「理と情」でいうところの「情」の部分に強く惹かれていたことに気付いたのです。
教祖が説く厳然たる「理」に従うことの重要性を頭では理解しながらも、人間の人間たる由縁である「情」に翻弄ほんろうされる秀司やこかんの姿に、僕は強い共感を覚えていたのです。
そうしたわけで、今回は教理的解釈にらぬ、僕だけのこかん像を書きたいと思っております。
文中ではあえて登場人物の敬称を略しますが、それは”そばな者”に対する僕なりの思慕の情の表れであることをご理解ください。

まず、僕が少年期によく耳にした「こかん様のうた」の歌詞をご覧いただきます。昭和27年(1952年)4月20日 第34回天理教婦人会総会で発表された曲です。
この曲は『みんなで歌おう』というタイトルのCDに収録されており、現在も道友社の販売所「おやさと書店」で販売されています。

作詞 福原光江  作曲 秋元清一

一輪匂う 紅梅の
乙女の御身おんみ かえりみず
教祖みおや御言みこと かしこみて
十三峠 越えたも
ああ やさしく清き こかん様

浪速の街の 八衢やちまた
はじめて流す 神の御名みな
この日この時 みおしえの
伸びゆく証し 立て給う
ああ 雄々しく強き こかん様

いま混濁こんだくの 世に生きて
いかにいばらの 道といえ
若き心に 燃ゆる火は
世界たすけの 匂いがけ
ああ われらの雛形 こかん様

「こかん様のうた」

曲調は歌い継がれてきた名曲「おやがみさま」

遠い遠いその昔  おやがみさまが人間を
作りたもうたお母さま 作りたもうたお母さま

「おやがみさま」

に似ており、少年期の僕はその寂しげな旋律が好きになれなかったのを憶えています。
「こかん様のうた」の歌詞だけを見れば決して暗くはなく、むしろ勇ましさすら感じるのですが、少年期の僕にはその歌詞の意味するところを正確に理解することはできませんでした。
今あらためて口ずさんでみても、こかんの清らかさ、健気さ、素直さ、力強さ。そして教祖の仰せのままに幾重の山坂も乗り越えて歩んだ女性、という印象を受けますが、やはり切なさや息苦しさのようなものを感じてしまうのは僕の心が濁り水にまみれているからなのでしょうか。

こかんが誕生したのは天保8年 陰暦 12月15日(陽暦1837年1月10日)でした。
翌年の天保9年10月26日(陽暦1838年12月12日)、中山みき様は神のやしろとなられましたが、それはこかんがわずか2歳にして神の子として歩むことを宿命づけられた日でもあります。
当然のことではありますが、こかんに関しては『稿本天理教教祖伝』(以後『御伝ぎょでん』と記す)にも記述されているので、こかんを語る場合は『御伝』に依拠いきょするのが王道なのでしょう。
しかしそれでは、皆さんがよくご存じのこかん像の焼き直しになってしまいますので、ここでは『御伝』からの引用をできるだけ控え、あくまでも僕の視点でこかん像に迫りたいと考えております。
ただただ単なる思い込みを吐露とろするだけになるやも知れませんが、最後までお付き合いいただければ幸いです。

幼きこかん

まず、生後間もないこかんについてです。
天保9年10月26日(陽暦1838年12月12日)の立教時点での教祖のお子様たちの年齢は
長男 秀 司 18歳(満17歳3カ月22日)
長女 おまさ 14歳(満13歳6カ月18日)
三女 おはる 8歳(満7歳1カ月17日)
五女 こかん 2歳(満0歳11カ月と2日)
でした。

教阻は、天保9年(1838)10月26日、「月日のやしろ」となられて以降、約3年間にわたって内蔵にこもられたといわれている。

『天理教事典』第三版

という記述を目にしたとき、教祖は生後満2歳のこかんの育児を、その時代の母親同様になされたのだろうか?という素朴な疑問を抱きました。
実際、「教祖は内蔵うちぐらもられていた期間は育児放棄状態だったのではないか」と言う方もいます。
ただ、神のやしろとなられた教祖が育児をなされなかったと仮定しても、父である善兵衛は存命でありますし、共に住まう18歳の長男秀司と14歳の長女おまさも、力を合わせてこかんの世話取りをしたのではないでしょうか。まだ幼かった三女おはるにしても、泣くこかんをあやすなど、簡単な子守くらいはしていたと想像できます。
当時は降って湧いたような災難(当時の親戚や近隣住民から見てですよ)に、家族全員が途方に暮れていたことと思います。しかし、だからこそ生まれて間もない末娘を、父である善兵衛をはじめ兄姉が懸命に守り育てたであろうと僕は思うのです。
後に縁づいて他家の人となった二人の姉にしても、二女のおはるは嘉永5年(1852年)に22歳で梶本家に嫁ぐまでは、こかんが誕生して以来15年間を共に暮らしています。
長女のおまさも1年遅れの嘉永6年(1853年)に29歳で福井家に嫁いでいます。つまりこかんと16年間を共に暮らしているのです。母親の愛情を感じることの少なかったであろう末の妹に、兄姉たちはなにくれと無く世話を焼いたのではないでしょうか。
また

中山たまへ(初代真柱夫人)の思い出話のなかに、学校で友だちにからかわれてこまったときに、教祖が、
「玉さんは学校へ行かんでもかまへんのやで、小寒の書物を眞之亮に教えてもらえばよい。小寒の書物は私があげたものや。小寒はその本を秀司に教えてもろうたのや」
と仰せられた、と述べられている。

『婦人会初代会長様を偲ぶ』

とあるように、こかんは読み書きを兄の秀司から習いました。
これらのことから、この兄妹たちは不安にさいなまれつつも濃密で強固な家族関係を築いていったのではないでしょうか。

浪速へ

さて、『御伝』でこかんに強いスポットライトが当たるのが、本教布教伝道の嚆矢こうしと言われる、こかんの浪速布教のくだりです。
こかんは父善兵衞の出直しの直後、秋の頃と言われていますが、十三峠を越え、浪速の町で神名を流しています。
『御伝』では次のように記されます。

善兵衞の出直し後、親神のお指図で、こかんは、忍坂村の又吉外二人をつれて、親神の御名を流すべく浪速の町へと出掛けた。
こかんの一行は、早朝に庄屋敷村を出発して西へ向い、龍田村を過ぎ十三峠を越えて河内に入り、更に西へ進んで、道頓堀に宿をとり、翌早朝から、往来激しい街角に立った。

「なむ天理王命、なむ天理王命。」

 元気に拍子木を打ちながら、生き/\とした声で、繰り返し/\唱える親神の御名に、物珍らしげに寄り集まって来る人の中には、これが真実の親の御名とは知らぬながらも、何とはなく、清々しい明るさと暖かな懐しみとを覚える者もあった。こうして、次から次へと賑やかな街角に立ち、「なむ天理王命、なむ天理王命。」と、唱えるこかんの若々しい声、冴えた拍子木の音に、聞く人々の心は晴れやかに且つ和やかに勇んで来るのであった。

『稿本天理教教祖伝』

この事歴に関して、僕は教祖の長女おまさの曾孫ひまごにあたる中山慶一よしかず(1906年-1985年 元表統領/本部員)の言葉に胸を打たれました。
松谷武一氏の『先人の面影』からの孫引まごびきになりますが、掲載いたします。

当時(嘉永六年)、中山家がああいう状況のときに、十七歳の若いお嬢さまがまだ見たこともない大阪の地へ、にをいがけの第一歩をふみ出してくださったという、ほんとうに雄々しくもまた尊いこかんさまのお姿に私たちは深い感動をすると同時に、その感動が今に至るまで若いよふぼくの力強いにをいがけ活動の引金になっている所に大きな意義を感じていたのですが、・・・・・・この写真集を編むための、青年会の諸君の努力によって私は、なるほどこかんさまがご苦労くださったそのお足跡に、たしかな信仰の芽生えがあらわれ、きれいな花が咲きはじめているな、という事を教えられたのです。
・・・・・・時期的にはちょっとおくれてはいるが、こかんさまの伏せ込まれたにをいがけの理の種が、お歩き下された道筋である西大和に直接力強く芽生えてきている、ということを私はあらためて教えられたわけです

『教祖伝参考写真集』P160-161

こかん自身が、自らの歩いた足跡がやがて西大和で芽生えを見ると考えていたかどうかは知るよしもありません。おそらく、ただただ教祖の仰せのままにおもむかれたのではないかと思うのですが、その後の布教線と西大和・河内でのお道の拡がりを目の当たりにして、こかんが”神の子”と言われる由縁ゆえんを見る思いがしました。

さて、この嘉永6年は中山家の母屋が取りこぼたれ(解体され)売り払われています。母屋の取りこぼちについては

もう当時は、おはる様は櫟本へ嫁入っておられます。取りこぼされた母屋が荷車に積まれて、京終の方へ向って売られて行くんであります。(中略)
その売られ行く我が家の材を積んだ荷車を見た時には、何とも云えない淋しい気持がしたと、おはる様が後に述懐しておられると云う様な語り伝えも残っておるのであります。

中山慶一『稿本天理教教祖伝講義録』

という記述がありますが、おはるのみならず、取りこぼちの現場を目の当たりにしていたこかんとて、同じ思いであったでしょう。
浪速布教に先立って父である善兵衛が出直し、姉である教祖の長女おまさが嫁ぎ、前年にはもう一人の姉のおはるが梶本家に嫁いでいきました。
優しかった父が出直し、赤ん坊の頃から時には母親代わりになって育ててくれた二人の姉が嫁いでいった。こかんにとっては心細く寂しい出来事だったことでしょう。
また、この当時のお屋敷を取り巻く状況を、増野鼓雪は次のように記しています。

 家計の窮乏きゅうぼうも里人の嘲笑ちょうしょうも、一家の支持者たる父善兵衛殿の在世中は、堪え忍ぶ道はあった。けれども嘉永六年二月二十二日、父が白玉楼中はくぎょくろうちゅうの人(※1)となられてからは、家運は貧のどん底に向って直下し、里人の嘲笑は何の遠慮もなく、残忍な程露骨になった。
 貧窮ひんきゅうの生活は御教祖の心に深く共鳴しておられた小寒殿としては、決して堪え難いものではなかった。けれども猜疑さいぎに満ちた眼差し、低い声で語らるゝ罵詈ばり 冷やかな口元に浮べられる嘲笑は、若い女の誇りを持った小寒殿としては、実に苦しき忍従にんじゅうの苦行であったに相違ない。

※1「白玉楼中(はくぎょくろうちゅう)の人となる」‥文人が死ぬ。”白玉楼”→文芸などに携わる人が死後に行くという楼閣

「増野鼓雪全集23巻」(昭和4年6月発行、増野鼓雪全集刊行会編)

このように、「こかん様のうた」で歌われるところの、浪速の街の 八衢やちまたで、こかんが天理教史上初めて親神の御名みなを流したというエポックメイキングな出来事の背景には依然厳しい現実があったのです。
こうした状況の中にあって、敢然と十三峠を越えた17歳の乙女の胸の内を想像するとき、巷間こうかんささやかれる「神名流しが目的ではなく、秀司が博打や米相場で失敗してできた借金を返済するためにいった」などという説も、たとえそれが事実であったとしても些末さまつなサイドストーリーに過ぎないとしか思えないのです。もっと言うと、そのサイドストーリーも、肯定的に受け止めることが可能だと僕は考えています。
秀司については前作『ひながたの同行者「中山秀司考」をご覧いただけたら幸いです。

梶本家とこかん

姉のおはるが梶本家に嫁いているので、こかんは後に天理教の初代管長となる真之亮を含む梶本家の子供たちの叔母にあたります。
こかんと真之亮の関係性を思い描く上で、興味深い記述があります。
松谷武一氏の『先人の面影』から孫引きします。

初代真柱直筆の「教祖御履歴不燦然探知記載簿」に、
「三日ノ願ノ勤ノ臺ハ義母御障リノ時ノ三日ノ願ハ此勤ノ始リ」(『復元』第三十九号、六頁)
「教祖四十一才ノ御時義母小寒君生ル」(同書七頁)
と記されている。「義母」という墨書二文字の紙背に、言葉に表現しきれない思慕の心が感じられる。
このあとに「二十四年前即ち明治八年旧表門新築す」(同書十頁)とあるから、この文章は明治三十二年ごろに書かれたことがわかる。
こかん丹精は、初代真柱ばかりではなく、兄の梶本松治郎、たけ、ひさ、楢治郎という四人の兄妹、弟たちにもおよび、この五人の人々が成長した暁には、みんな教祖の道の上にかけがえのない御用をつとめた。
※太字はBeによる

松谷武一『先人の面影』

後の初代管長真之亮が、こかんをして「義母」と表現しているのを見つけて、僕はこかんの晩年の苦労が報われたような気がしました。

こかんが出直したのは明治8年陰暦8月28日(陽暦1875年9月27日)でした。
この時、真之亮はまだ10歳です。

『御伝』の第6章「ぢば定め」に、明治7年の出来事として

当時、真之亮は九歳で、いつも櫟本村の宅からお屋敷へ通うて居たが、教祖は、家族同様に扱て、可愛がられた。

『稿本天理教教祖伝』

と記されているように、こかんは出直す以前から甥である幼い真之亮と親しく接していました。恐らく慶応2年6月19日に真之亮が生まれて以来、幾度も櫟本の梶本家をおとない、幼い真之亮をその胸に膝に抱き、可愛がってきたと思われます。むろん、その他の甥姪も真之亮同様に慈しんでいたことでしょう。つまり、後にこかんが後添のちぞいとして梶本家へ入ることは、当時の慣習の上からも、またその関係性の上からも、むしろ自然なことといえます。

明治5年(1872年)6月17日に梶本惣治郎そうじろう、おはるの五男として梶本楢治郎ならじろうが生まれると、おはるは翌6月18日に42歳で出直してしまいます。
梶本家からの懇望もあり、母を亡くした梶本家の子どもたちを不憫ふびんに思ったこかんは生まれたばかりの楢治郎を含め、3人の遺児の母親代わりとして梶本家に入ります。
その段に進む前に、ここでおはるの出直しにつて少し触れたいと思います。

梶本おはるの死

教祖の三女であり、こかん姉でもある”おはる”の出直しの経緯について、僕は納得のいかぬまま青年期を過ごしました。
おはるは「何でも彼でも、内からためしして見せるで」とのお言葉のままに、嘉永7年、立教以来初めての「をびやゆるし」をいただかれた女性です。おはるは安政南海大地震の最中に長男亀蔵を安産されています。
その奇跡的なお産が人口じんこう膾炙かいしゃしたことで人々に「安産の神」と認識され、『御伝』に記されるように「よろづたすけの道あけとなって」文久2、3年頃には、「庄屋敷村のをびや神様」の名が、次第に大和国中に高まっていきました。
また、おはるが嫁いだ梶本家は、立教以来貧のどん底を通られた中山家を、
教祖のご生家である前川家でさえもが愛想を尽かす中、ずっと擁護ようごし援助し続けてくれた、いわば一番の身内であり庇護者ひごしゃでもあります。
そして何といっても、後の天理教初代真柱となる真之亮を生んだ方なのです。そんなおはるの出直しに至るストーリーに僕は強い違和感を覚えていました。
その物語の概要を、一番分かりやすいと思われる『教祖伝入門十講』(矢持辰三著)の記述から引用します。

おはる様がお出直しになる一年前、明治四年の秋に櫟本の祭礼があったわけです。
そのときに教祖はじめ中山家のご家族、あるいは梶本家のご親戚の方々が梶本家にお集まりになって、秋祭の酒盛りをなさった。それが例年のしきたりになっていたようであります。
その際、秀司先生はあまりお酒がお強くなかったようで、おはる様のご主人の惣治郎様が、味醂をお出しになった。それが前もって味醂であると伝えられてなかったからか、それを秀司様が飲んで「なんで、わしだけにこんなことをするんや」と文句をおつけになった。
すると惣治郎様は「わしはせっかく、味醂の方がいいと思って出したのに」と仰しゃって、そのへんでちょっと物言いがついたわけです。
「お前は庄屋敷村の地持ちさんの娘さんや。わしは鍛冶屋や。鍛冶屋へ嫁に来て、お前は損をしたやろ。わしも損した。神さんの娘さん、もったいない。んでくれ」
というような言葉がでたそうです。酔っ払って勇み足の言葉がつい出たわけであります。
そうすると、教祖もおいでになることですから、皆が一応「まあま、そんなことを言わんと」となだめたのであります。特に辻忠作先生はご親戚でもありますし、「あとにしこりの残らんようにしてもらわんと、どんなりません」という言い方でその場は治められたわけです。

それからちょうど一年ほど経ちまして明治五年六月十八日、「産むなり死ぬなりなりやった」と辻忠作先生の口述があるんですが、おはる様は、お子さんをお産みになった翌日に亡くなった。
その当時の梶本家には、長男の松次郎様とおっしゃる方とたけ様、ひさ様、それに初代真柱になられた真之亮(新治郎)様、そして産まれたばかりの赤ちゃん楢治郎様、この五人のお子さんがおいでになった。お母さんが亡くなって、乳呑児が泣いている。
どうにも手のほどこしようがない。ご主人の惣治郎様は「なんで死んでくれた」と言って、亡骸にすがって涙を流しておられる。
娘が亡くなったのですから、教祖もお葬式にお出ましになっておりまして、そして教祖は、
「な、惣治郎さん、あんた去年、こうなってくれと言うたやないか。神さん、言うたようにしてやったんや。何にも悔やむことないやろ
と繰り返し繰り返し仰しゃった。
そして、そのあとで、
「愛想づかし、捨て言葉、切り口上はおくびにも出すやないで。愛想づかし、捨て言葉、切り口上、これかなわん。これさえかのうたことならば、五臓六腑の病さらになし」とお話しになったと聞きます。
※太字はBeによるもの

矢持辰三『教祖伝入門十講』

「神さん、言うたようにしてやったんや。何にも悔やむことないやろ」という教祖のお言葉に、僕は強い違和感を覚えました。「教祖。いくらなんでもそれはないんちゃいますの?」と。
酒の勢いで、普段から不満に思っていたことをぶっちゃけたからといって、何も10ヶ月後に命まで奪わなくても・・・・・・。
信仰的に未熟だった僕には、この信賞必罰しんしょうひつばつ的で、なおかつあまりにも救いのない結果がどうにも納得できず、長年悶々としてきたのですが、深谷忠一氏の小論文を見つけた時に、やっと救われたような思いになりました。
長文の引用ばかりで申し訳ないのですが、ザッと目をお通しいただければ幸いです。

この件については、“教祖は、道の上で重要な役割を果たすべきお身内の方には特に厳しい通り方を求められた。他より身内に甘い世上とは反対のあり様こそ、教祖が人類の母たるゆえんである”という見方もあるかも知れません。しかし、それでも、酒宴でのいざこざの結果が10カ月後の出直しに現れた理由にするのは、かなり無理があると思うのです。
『正文遺韻』の中の「をびやゆるし」の説明でも、「常の心のよし、あしをいふやない、常の悪しきは別にあらはれる」とありますから、「惣治郎様の10カ月前の切口上が産後のこじれの原因」というのでは、話の筋が通らないのであります。
それでは、おはる様がお迎えとりになった真の理由は何か?これについては、『正文遺韻』以上の資料が見つかりませんので、以下は筆者の推測・悟りで申すのですが…おはる様は、この最後のお産の時に、「をびやゆるし」を受けておられなかったのではないかと思うのであります。
前年の8月に親族が村の祭りに寄った時の酒の席で、惣治郎様がお酒の強くない秀司様のためを思って味醂を出されたのに対して、皆さんに返杯ができないではないかと秀司様がクレームをつけられた(高野友治『教祖余話』18頁)。
それで、この時のもめ事が原因で、おはる様がおぢばに帰りにくくなっていたのではないかと思うのです。
そして、また、それまでにすでに6人も子供を産んでおられますから、無理をして教祖に「をびやゆるし」を願いに帰らなくても大丈夫だろうと思われたのではないかと推測するのです。
つまり、教祖が「をびやゆるし」を出す最初の台になされたお方が、後になってそれを軽んじることになった。それで、お産の後のこじれで生命を縮める大節を見せてまで、「をびやゆるし」の理の重さを示されたのではないか。そう考えた方が、この一連の出来事に納得できるのではないかと筆者は思うのであります。

『教祖伝』探究(17) おはる様お出直し おやさと研究所長 深谷忠一
Glocal Tenri Vol.16 No.11 November 2015

この梶本家に起きた大きな事情は、一見、こかんの話からは大きくれた感があるかも知れませんが、この延長線上にこかんの梶本家入りがあることを考えると、おはるの死とこかんの梶本家入りが、あながち親神様の計画から外れたものとも思えないのです。そうした上から、あえて長い引用をいたしました。

さて、いよいよこかんが梶本家に入るわけですが、その直前に教祖とこかんの間でこんなやり取りがありました。

明治五年姉春子様、赤児をのこしてみまかりし故、その赤児を養育する為に、来てくれとの頼みにより、御教祖様、御許しあらざるに、小寒様は無理にもゆきたいと被仰おっしゃられ、教祖様の御止めに成るを聞かざりしかば、(教祖が、梶本家に行くことになったこかんに向かって)『それでは三年だけやで。三年の後には赤い着物を着て、上段の間に座って、人に拝まれるようになるのやで』と御咄おはなしあり。こかんは、『もしもそんなことになるようやったら、どうぞ止めてくだされや。わしゃ、そんなことかなわぬさかいに』と人々に頼んでいった云々」
※太字はBeによるもの

諸井政一もろいまさいち正文遺韻せいぶんいいん」(山名大教会版)

こかんが梶本家に入るにつき、教祖から
『それでは三年だけやで。三年の後には赤い着物を着て、上段の間に座って、人に拝まれるようになるのやで』と期限付でお許しが出ました。
こかん自身も梶本家にいくことを望んでいましたので、教祖からお許しがでたことは嬉しかったはずです、しかし「人に拝まれるようになる」というお言葉には強く反発し、

『もしもそんなことになるようやったら、どうぞ止めてくだされや。わしゃ、そんなことかなわぬさかいに』

と、周囲の人々に懇願していました。この言葉を知った時、僕はひっくり返るほど驚きました。
こかんは教祖が最も頼りにした「若き神」でした。当然こかん自身もそれを自覚し、教祖の仰せに素直に従って日々を生きてきたものと僕は思い込んでいました。
この言葉は僕のこかん像を根底からくつがえしました。
神の子こかんの背後から、突如として生身のこかんが立ち現れ自我を表明したのです。
僕が「人間としてのこかん」を意識するようになった契機でもあります。

教祖のこかんにかける思し召しはとても大きく深いものでした。たとえば、

(前略)
さあ/\元々十年の間という。若き神とも言うたやろ。それはとんと古い事で聞き分けにゃ分からん。若き神と言うた。十年の間若き神という。この者一つ順序の理、成らず/\の間、順序を諭すは、この元台というは一寸には諭せん。
(中略)
痛めてなりとかゞめてなりと。名は秀司という。この艱難もよう聞き分けてくれにゃならん。若き神、名はこかん。これらは成らん/\の中順序通して、若き神はずっと以前に暮れた。知って居る者ある。よく伝え。
※太字はBeによる

『おさしづ』明治三十一年七月十四日夜
昨朝本席御身上御願い申し上げば、夜深に尋ね出よとの仰せに付願

と『おさしづ』には珍しい「若き神、名はこかん。」という体言止たいげんどめを用いて、その思いを強調さております。この『おさしづ』ひとつとっても、深遠にして切実な神の思いを垣間見る気がします。
また小寒子略伝「増野鼓雪全集22巻」にも

若 い 神
小寒殿が久しい修行に堪えて、神懸かみがかりのある身となられたことは事実であるが、何時頃から如何にして、の地位を得られたのであるかは分らない。唯後年御本席に神懸があって『十年の間若き神と云う』また『若い神小寒と云う十年間と云う』の御言葉に依って、帰幽前十年間であったことが分るに過ぎない。
帰幽の十年前と云えば、慶応元年であるが、飯降氏が入信せられた時に、小寒殿から御話を承り、後小寒殿から扇の伺を頂かれた事より考えると、其の当時既に小寒殿に神懸があったものと思われるのである。
所が元治元年と云えば、御教祖が長らくの暗がりの道を通って、曙光しょっこう(※1)を認められた時であり、本教が人々に伝えられた年である。飯降氏を始め桝井、山中、山澤等の方々が、入信せられたのも此の年である。
此の方々が御教祖の教化を受けられたことは、云う迄もない事であるが、直接には多く小寒殿に接して、教を聞かれた様である。何故なら御教祖の御言葉は、予言神秘に充ちておって、初信の者には容易に理解出来ない節々が、間々まま(※2)あったのである。それで小寒殿は多く御教祖と信者の間にあって、取次をせられた点から思うと、御教祖の御言葉を人々に理解出来るよう諭されたものと思われる。
聡明にして優しい小寒殿は、くして其の霊の因縁である、国狭土命(くにさつちのみこと)のお働きである、つなぐ理を示されたのであって、これが為に、信者と御教祖の間が強く固く結ばれたのみならず、兄秀司殿と御教祖の間柄も小寒殿の此の物柔かな処置で、一家が事無く治まって行った。

※1「曙光(しょこう)」‥夜明けにさしてくる太陽の光。前途に見え始めたかすかな希望。
※2「間々(まま)」‥どうかすると。ときどき。おりおり。
(以上、小学館「現代国語例解事典」より)

小寒子こかんこ略伝「増野鼓雪全集23巻」

と、こかんが教祖のご期待通りに神の子として教祖の代理をされ、秀司と教祖。あるいは信者と教祖の間を繋ぐ役目をも兼ねていたたことが分かります。
さらに同書に記述される「明治5年、教祖は75日の断食の間に若井村の松尾市兵衛宅におもむかれ、四日間滞在されましたが、その時同行されたこかんに神懸かりがあったとされ、また、参拝者の増えた慶応三年の頃には上段の間に並んで座られた教祖とこかんの交互に神懸かりがあったとも記述されています。」という文章からは、当時のこかんはすでに比喩ひゆではなく、実質を伴う「若き神」であり、教祖の片腕でもあったことが分かります。
そう思い込んでいた僕が、

『それでは三年だけやで。三年の後には赤い着物を着て、上段の間に座って、人に拝まれるようになるのやで』

とのお教祖のお言葉に対して、こかんが周囲の人々に

『もしもそんなことになるようやったら、どうぞ止めてくだされや。わしゃ、そんなことかなわぬさかいに』

と、心情をあからさまに吐露していたわけですから、僕は驚倒きょうとうしたわけです。しかし同時に、ホッとしたような暖かな感慨を覚えたことも事実です。
”こかんの反乱”ともとれるこの言葉は、こかんが教祖のように「神そのもの」ではなく、神と人、あるいは聖と俗との間を行きつ戻りつする中で、人間的な俗なる感情と一人の女性としての特性や感性を持ち続けていたことの証左しょうさなのではないでしょうか。そして、そういうこかんに僕は強烈に惹きつけられるのです。

出直し 聖と俗の狭間はざま

いよいよこかんの出直しについて触れます。
『御伝』には

九月二十七日(陰暦八月二十八日)、こかんが三十九歳で出直した。

この報せに、御苦労中の教祖は、特別に許可を受けて、人力車で帰られると、直ぐ、冷くなったこかんの遺骸なきがらを撫でて、「可愛相に。早く帰っておいで。」と、優しくねぎらわれた。

『稿本天理教教祖伝』

と記されています。他にも、こかんが身上になったという記述はありますが、出直しそのものについてはたったこれだけです。あまりに簡単すぎて目眩めまいを覚えるほどです。
「若き神」とまでいわれたこかんですよ。あんまりじゃありませんか。
でも『御伝』というものの性格を考えると、それも仕方がないことなのでしょう。
仮に『御伝』に「そばな者」一人ひとりの詳細な事歴や人となりを余すところなく記したら、おそらく『御伝』によって伝えるべき肝心の教祖のひながたが不鮮明なものになってしまう。伝えなければならないものを確実に伝えるために、夾雑物きょうざつぶつを極限まで取り除いたことが『御伝』を『御伝』たらしめているのだと、僕は思っています。
とはいえ、こかんが教祖と共に歩んだ道を思うとき、こかんの最期についての記述は冷淡に過ぎる気がいたしますが・・・・・・。

こかんの死因については公式には明らかにされておらず、唯一といってよい記述が『増野鼓雪全集』の「小寒子略伝」に残されています。
同書に収録される「小寒子略伝」は一時、禁書扱いにされていたと聞きますが、鼓雪ファンはいまだに多く存在し、愛読書として大切にされているファンもおられます。
現在は本部もうるさいことを言わないようなので、諸井政一氏の『『正文遺韻』昭和12年版」と併せて引用します。

『正文遺韻』
小寒様御逝去
明治八年九月廿七日、若き神さんと呼び奉りたる小寒様、御死去被遊。
是より前、明治五年姉春子様、赤児をのこしてみまかりし故、その赤児を養育する為に、来てくれとの頼みにより、御教祖様、御許しあらざるに、小寒様は無理にもゆきたいと被仰、教祖様の御止めに成るを聞かざりしかば、仰せらるゝには、『夫では三年だけやで、三年の後には、赤ききものをきて、上段の間へ坐つて、人に拝まれる様になるのやで』と御咄しあり。
其時は、何のさとりもなく、もしも、そんな事になる様やつたら、どうぞ止めて下されや。わしや、そんな事かなわぬさかいに、とある人々にたのみたりしと。然るに、梶本様へ行きて、のちぞひ同様にくらしけるより、遂に神様の思召にそむき、よぎなくみまかるに立至り、はしなくも人に拝まるゝ様になるとの仰せに帰したり。

諸井政一著『正文遺韻』昭和12年版P120.『改訂正文遺韻』復刻版P109

「小寒子略伝」『増野鼓雪全集22』
三年の月日は夢の如く過ぎた。御教祖は一日も早く小寒殿の帰られるのを待たせ給うた。けれども既に妊娠してをられた小寒殿は、中山家へ帰るのを好まれず、して梶本家では帰す心は更に無かつたのである。
其所に神意と人意との大きい矛盾がある。見許し聞逃してをられた神様も、遂に心得違を諭されるべき時が来た。小寒殿は明治八年六月末に至つて、流産せられてから病床に親しむ身となられた。
病気になつては人力で如何ともする術が無い。小寒殿は遂にお地場へ帰つて来られたのである。其の頃御教祖は御筆先に於て『月日より社となるを二人とも、別間隔てて置いてもろたら』と仰せになつたのである。然しこれは遂に実現せずに終わつた。
(中略)
同年九月奈良縣廰より取調べの筋があるから、秀司殿同道出頭せよとの命があつた。御教祖は秀司殿の代理辻氏と共に罷り出られたところが『妄りに衆庶を参拝せしめ人を惑すは不都合である』と云ふ理由で、御教祖は三日間辻氏は五日間拘禁せられた。
其の御教祖の留守中、即ち9月二十七日、小寒殿は遂に永久の眠りに入られた。三十九年の生涯の長き間、殆ど御教祖の御側を去らず、奉仕の生活を送られたのに、その死に臨んで母の面影にも接せず、冷たき留置所の母上を慕うて、帰霊せらるゝ時の心は、如何に残念なものであつたらう。
翌日御教祖が御帰宅になつて、既に冷たい小寒殿の額を撫でて『長らくの間よく仕へて呉れた、死んでも何處へも行くのやない、蝉の抜殻も同じこと、魂は此の屋敷に留まつてゐるのや、又早く帰つてお呉れ』と仰せられた。そして厚く葬儀を営んで善福寺へ葬り給うた。
※太字はBeによる

「小寒子略伝」『増野鼓雪全集22』P23~29

と記されています。
この太字部分の記述が事実だとしても、それが『御伝』に記述されていないのは、前述した理由から妥当であると思っています。梶本家での話は夾雑物きょうざつぶつであるからです。
しかし、諸井や鼓雪の記述の信憑性しんぴょうせいはともかく、僕はこの記述によって一つの救いを見る思いがしたのも事実です。
結果的には流産し、それが出直しに繋がるという哀しい結末に至ったことを考えれば、やはり「理」は絶対なのでしょう。
それでも、こかんの艱難かんなん忍従にんじゅうに満ちた生涯の最期に、ほんのひとときであっても一人の女性として、妻として、そして母としての喜びに胸をうち震わせであろうことを想像するとき、僕は胸が一杯になるのです。
こかんのお腹の中にいた子の父親は梶本惣治郎としか考えられませんが、
姉が身罷みまかった後に妹が後添のちぞいにいくのは普通だった時代です。梶本家の事情を知る周囲の人々は、こかんが後妻であることを肯定的に捉えていたのではないでしょうか。
書類上の婚姻関係になかったことをとやかく言いたい方がいらっしゃったら、小一時間ほど膝詰めで話し合いましょうかね。

こかんの晩年は、教祖の思し召しに反した日々であったかもしれませんが、死の床にあっても、一人の女性として、その生涯で最も平穏で幸せな日々を送れたことに喜びを感じていたのではないかと想像するのです。

流れに棹をさすようですが、ここでひと言添えさせていただきます。
前掲した『正文遺韻』の
梶本様へ行きて、のちぞひ同様にくらしける」
という文章からは、こかんが梶本家に後添い同様に暮らし、お屋敷へほとんど帰らなかったかのような印象を受けますが、松谷武一氏は『先人の面影』で

・明治7年(1874年)陰暦11月18日、教祖がお召しになる赤衣の布地を買いに、こかんはまっゑと共に奈良へ出かけている。(稿本教祖伝逸話篇 P57)
さらに同じ年、お屋敷へ参拝した西尾ナラギクに、こかんは教祖の仰せで糸つむぎの用事を出している。(同P63-65)

・明治8年(1875五年)陰暦5月26日、ぢば定めが行われた。このとき、こかんは重い理の御用をつとめた。
この日は出直しのわずか三カ月まえであった。

など、エビデンスが担保された記述を根拠として、こかんが度々お屋敷に帰っていたと断言しています。
諸井の記述を予備知識のないままに読むと、こかんの晩年の3年間が教祖と絶縁状態にあったかのような錯覚を与えてしまうかも知れませんので、あえて松谷氏の記述をご紹介いたしました。
こかんは梶本家の人となった後も、たびたびお屋敷に帰り、「ぢば定め」という極めて重要な場面でその役割を果たされ、またお屋敷の雑事などもしっかりつとめていたのです。それは取りも直さず、こかんが教祖とお屋敷に従前と変わらず心を繋いでいた証左ではないでしょうか。

明治8年9月27日(陰暦八月二十八日)。こかんは39歳で出直しました。
こかんの死を教祖は嘆かれました。梶本家の人々も、真之亮はじめお子様たちも悲しみにくれたことでしょう。
しかしこかんの死に誰よりも慟哭どうこくしたのは、神の子として宿命づけられた者にしか分からぬ苦悩と苦労に満ちた道中を、共に歩んできた兄秀司だったと想像します。
「理」は普遍であり、情ははかなもろいもの。
教祖から最も薫陶くんとうをうけたこかんです。教祖の崇高すうこうにして遠大なる思し召しが分からなかったはずはありません。
こかんは「理」に徹することができなかったのではなく、むしろ自らの意思で「情」から逃げない道を選んだのではないかと、僕は時々思うことがあります。
兄秀司もまた、こかん同様、教祖と信者、そしてお道を思う上から、敢えて理に背を向け、情の道を選んだ人でした。
この兄妹は神の子としての立場にありながらもえて”神にならない道”を選んだ兄妹なのです。
こかんの死の瞬間を伝える資料はありません。
でもやはり、満足げに微笑んで出直していかれたと思われてなりません。
その6年後に出直す兄秀司は、その今際いまわきわで、延命を願おうとする桝井伊三郎に対して

『無い寿命を御願ひするのは、それは欲だすセ、理の欲と云ふものだす』

と伝え、苦しみの様子を見せなかったといいます。
秀司の達観した言葉には、先にったこかんの出直しに観ずるものがあったのではないか?と思わせるものがあります。

こかんの出直しについて、諸井政一は

梶本様へ行きて、のちぞひ同様にくらしけるより、遂に神様の思召にそむき、よぎなくみまかるに立至り、はしなくも人に拝まるゝ様になるとの仰せに帰したり。

諸井政一著『正文遺韻』昭和12年版P120.『改訂正文遺韻』復刻版P109

と記し、増野鼓雪は

御教祖は一日も早く小寒殿の帰られるのを待たせ給うた。けれども既に妊娠してをられた小寒殿は、中山家へ帰るのを好まれず、して梶本家では帰す心は更に無かつたのである。
其所に神意と人意との大きい矛盾がある。見許し聞逃してをられた神様も、遂に心得違を諭されるべき時が来た。小寒殿は明治八年六月末に至つて、流産せられてから病床に親しむ身となられた。
(中略)
其の御教祖の留守中、即ち9月二十七日、小寒殿は遂に永久の眠りに入られた。三十九年の生涯の長き間、殆ど御教祖の御側を去らず、奉仕の生活を送られたのに、その死に臨んで母の面影にも接せず、冷たき留置所の母上を慕うて、帰霊せらるゝ時の心は、如何に残念なものであつたらう。

「小寒子略伝」『増野鼓雪全集22』P23~29

と、いずれもこかんの死の直接的な原因が教祖の思し召しに背いた結果であると断定し、悔やんでも悔やみきれない悲劇のように語っています。
一時代をかくした教学研究界の二人の巨人に異議を唱えるようで気が引けるのですが、ここで牽強付会けんきょうふかいに過ぎるBe的仮説を記させてください。

結びに代えて ナライトのことなどを少し

僕はこかんの反乱ともいうべき晩年の三年間は、見抜き見通しである教祖にとっては想定の範囲内の出来事であったと思っています。
こかんが出直した翌年の明治9年には上田ナライトが入信しており、さらに明治12年に教祖はナライトに側で仕えることと、生涯を独身で通すことを命じています。
そして、明治十二卯年 陰暦二月二十三日の刻限のさしづで、教祖が

『ナライトの身の内、神の方へもらい受け、その上は「あっけんみよのやしろ」として人を救ける。あとなるは、みな引き受ける』
…「あっけんみよのやしろ」とは、「あっけん明王の入り込む社」という意味。あっけん明王とは、お産の時の「切る・引き出す・繋ぐ」の、三柱の働きを言う。こふき本(明治十四年和歌体本)に初見。

天理教道友社『道のさきがけ』教祖伝にみる人物評伝

と仰せられたことでナライトは「人足社にんそくやしろ」と定められ、本席飯降伊蔵没後は伊蔵の代わって「おさづけ」を渡すようになります。
けれども教祖の最初のご計画では、ナライトがつとめた役割はこかんが負うことになっていたと想像するのです。
また、明治20年陰暦正月26日に教祖が現身を隠されて間もない3月25日に飯降伊蔵(当時54歳)が本席と定まりましたが、もしこかんが存命であれば、すでに神懸かることのあったこかんが教祖に代わって神の言葉を伝えたであろうことは、

月日よりやしろとなるを二人とも
べつまへだてゝをいてもろたら(九号-2)

のお歌から考えても至極自然な流れであったはずです。
そのご計画は図らずも頓挫したように見えましたが、こかん出直しの直後にナライトがお道に引き寄せられ、わずか3年という異例の早さで「人足社」と認められたという事歴に思案を巡らせたとき、それはこかんからナライトに理が継承された瞬間でもあったのではないかと、勝手に想像したりしております。
そこに人間には推しはかることのできない親神様の計画の緻密さと、教祖の思し召しの強固さ、あるいは柔軟性ともいうべきものを垣間見かいまみる思いがするのです。
そのように考えた時、見抜き見通しの教祖であれば、こかんが梶本家に入った時点でその出直しを予見されていたとしても何の不思議もありません。
このようにつらつらと妄想していると、こかんが梶本家で過ごした三年の日々に対して、教祖は厳しい「理の仕込み」のお言葉とは別に、その胸の内では暖かく優しいまなざしをこかんに向けておられたのではないかという推論が頭の中で鮮明になってきたのです。
それは教祖の

「今度屋敷へ生れる時は、名を玉姫と云い、乳や乳母で育てるのではない。甘露で育てる」

『増野鼓雪全集23巻』

とのご予言にあるとおり、こかんの魂を初代真柱中山真之亮の長女”玉千代”として、つまり再び中山家の人として生まれ変わらせていることからも感じるのです。玉千代は長じて山澤為信と結婚し、中山分家を立てることとなります。

では、妄言に近い仮説はこれくらいにして、ラストへと進みましょう。

さて、秀司とこかんの二人が歩んだ道は、たびたび理と情の狭間はざま懊悩おうのうする不完全な僕たちの手本として、つまりもう一つの「ひながた」として、今も勇気を与え続けてくれています。
二人のこんなやり取りが残されています。

古き道すぢ 高井猶吉
丁度布留の宮の祭り、秀司先生が、この村の娘達は皆な着物着代えて布留の宮に参るが小寒は可愛想に着て行く着物がないから参る事できぬな、あゝ気の毒やな、と云われたら、小寒様は、私はそら何にも思いませんが、兄さんの青物作って丹波市にお売りに行くのが気の毒に思いますと云った。
沢山のものを皆な施して極く困難な時や。その時分からズット秀司先生なり小寒様なりお通りになった。

「教団の力」(昭和2年発行、天理教青年会発行)より、高井直吉先生のお話)

ベースは『御伝』にあるおなじみの逸話ですが、それとはまた違った味わいがあり、極貧の中にあっても互いを思いやる兄妹の言葉に胸を打たれます。

こかんがその短い人生の最後に、我が子として慈しんだ梶本の子供たちのその後について、「喜び勇んでブログ」さんから省略して引用します。

・松治郎(初代真柱の実兄)
教祖が身を隠される直前の相談に加わり、明治二十年一月十三日の『おさしづ』で「三名の心しいかりと心合わせて返答せよ」と神様から迫られた3人(真之亮・前川菊太郎・梶本松治郎)の中の1人。

・楢治郎(五男)
大正14年1月30日天理外国語学校創立委員建築係
昭和3(1928)年6月26日香川・徳島教務支庁長(昭和10年2月1日まで)
よのもと会四国支部長等歴任
※こかんの姉おはるは、楢治郎を産んだ翌日に出直す。

・ひさ(二女)
教祖の附き添いとしてそば近くに勤め、本教草創時代のあらゆる苦難を教祖とともにした。
明治19年旧正月15日より12日間教祖最後のご苦労を櫟本警察分署でともにすごした。
明治20年4月8日、山澤為造と結婚、男女7人の子供を成人させた。
明治24年9月10日、「水のさづけ」「てをどりのさづけ」を同時にいただいた。
明治43年1月29日、天理教婦人会創設に当たっては理事を拝命、晩年は教祖殿の奉仕を唯一の仕事とし、盆も正月も休むことなく、存命の教祖の側ですごすのが何よりのつとめであり、楽しみであった。

このように、幼い頃にこかんの愛情と薫陶を受けた子供たちは、後にお道の中枢で活躍しています。これもまた嬉しいことです。
あいかわらず引用の多い長い記事になってしまいましたが、最後に小寒子略伝「増野鼓雪全集23巻」に記される教祖のお言葉をもって、この記事の結びといたします。

 (こかんの)帰幽後きゆうご御教祖は屡々しばしば、小寒殿に関する御予言をなされた。のおもなるものを摘録てきろくすれば、
 「今度屋敷へ生れる時は、名を玉姫と云い、乳や乳母で育てるのではない。甘露で育てる」と仰せになり、又「十八歳迄は人並に成人するが、十八歳から先は、なんぼ年をとっても、いつも十八の姿や」と仰せになった。

『増野鼓雪全集23巻』

あまりにも重かった古き着物を脱ぎ捨て魂となった愛娘を、教祖はいつまでも慈しみ続けられたのです。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
ではまたいずれ。

(了)

writer/Be.w.o
proofreader/ N.N

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