ひながたの同行者「中山こかん」考
序に代えて 僕の中山こかん像
noteで雑文を書き始めて以来、いつか”中山秀司・こかん兄妹”について書きたいと思い続けてきたのですが、あまりにも資料が乏しいため書きあぐねていました。加えて「こかんの何について書きたいのか?」と自問した時、それすらも判然としなかったのですから、書けなくて当然でした。
しかし前2作でこかんの兄である秀司について思いつくままに書き散らしたことで、結局僕は”そばな者”の人間的な部分。つまり「理と情」でいうところの「情」の部分に強く惹かれていたことに気付いたのです。
教祖が説く厳然たる「理」に従うことの重要性を頭では理解しながらも、人間の人間たる由縁である「情」に翻弄される秀司やこかんの姿に、僕は強い共感を覚えていたのです。
そうしたわけで、今回は教理的解釈に依らぬ、僕だけのこかん像を書きたいと思っております。
文中ではあえて登場人物の敬称を略しますが、それは”そばな者”に対する思慕の情の表れであるとご理解ください。
まず、僕が少年期によく耳にした「こかん様のうた」の歌詞をご覧いただきます。昭和27年(1952年)4月20日 第34回天理教婦人会総会で発表された曲です。
この曲は『みんなで歌おう』というタイトルのCDに収録されており、現在も道友社の販売所「おやさと書店」で販売されています。
曲調は歌い継がれてきた名曲「おやがみさま」
に似ており、少年期の僕はその寂しげな旋律が好きになれませんでした。
今あらためて「こかん様のうた」を口ずさんでみても、こかんの清らかさ、健気さ、素直さ、力強さ。そして教祖の仰せのままに幾重の山坂も乗り越えて歩んだ女性、という印象は受けますが、やはり切なさや息苦しさのようなものを感じてしまうのです。
こかんが誕生したのは天保8年陰暦12月15日(陽暦1837年1月10日)でした。
翌年の天保9年10月26日(陽暦1838年12月12日)、中山みき様は神のやしろとなられましたが、それはこかんがわずか2歳にして神の子として歩むことを宿命づけられた日でもあります。
当然のことではありますが、こかんに関しては『稿本天理教教祖伝』(以後『御伝』と記す)にも記述されているので、こかんを語る場合は『御伝』に依拠するのが王道なのでしょう。
しかしそれでは、皆さんがよくご存じのこかん像の焼き直しになってしまいますので、ここでは『御伝』からの引用をできるだけ控え、あくまでも僕の視点でこかん像に迫りたいと考えております。
ただただ単なる思い込みを吐露するだけになるやも知れませんが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
幼きこかん
まず、生後間もないこかんについてです。
天保9年10月26日(陽暦1838年12月12日)の立教時点での教祖のお子様たちの年齢は
長男 秀 司 18歳(満17歳3カ月22日)
長女 おまさ 14歳(満13歳6カ月18日)
三女 おはる 8歳(満7歳1カ月17日)
五女 こかん 2歳(満0歳11カ月と2日)
でした。
という記述を目にしたとき、教祖は生後満2歳のこかんの育児を、その時代の母親同様になされたのだろうか?という素朴な疑問を抱きました。
実際、「教祖は内蔵に籠もられていた期間は育児放棄状態だったのではないか」と言う方もいます。
ただ、神のやしろとなられた教祖が育児をなされなかったと仮定しても、父である善兵衛は存命でありますし、共に住まう18歳の長男秀司と14歳の長女おまさも、力を合わせてこかんの世話取りをしたのではないでしょうか。まだ幼かった三女おはるにしても、泣くこかんをあやすなど、簡単な子守くらいはしていたと想像できます。
当時は降って湧いたような災難(当時の親戚や近隣住民から見てですよ)に、家族全員が途方に暮れていたことと思います。しかし、だからこそ生まれて間もない末娘を、父である善兵衛をはじめ兄姉が懸命に守り育てたであろうと僕は思うのです。
後に縁づいて他家の人となった二人の姉にしても、二女のおはるは嘉永5年(1852年)に22歳で梶本家に嫁ぐまでは、こかんが誕生して以来15年間を共に暮らしています。
長女のおまさも1年遅れの嘉永6年(1853年)に29歳で福井家に嫁いでいます。つまりこかんと16年間を共に暮らしているのです。母親の愛情を感じることの少なかったであろう末の妹に、兄姉たちはなにくれと無く世話を焼いたのではないでしょうか。
また
とあるように、こかんは読み書きを兄の秀司から習いました。
これらのことから、この兄妹たちは不安に苛まれつつも濃密で強固な家族関係を築いていったのではないでしょうか。
浪速へ
さて、『御伝』でこかんに強いスポットライトが当たるのが、本教布教伝道の嚆矢と言われる、こかんの浪速布教のくだりです。
こかんは父善兵衞の出直しの直後、秋の頃と言われていますが、十三峠を越え、浪速の町で神名を流しています。
『御伝』では次のように記されます。
この事歴に関して、僕は教祖の長女おまさの曾孫にあたる中山慶一(1906年-1985年 元表統領/本部員)の言葉に胸を打たれました。
松谷武一氏の『先人の面影』からの孫引きになりますが、掲載いたします。
こかん自身が、自らの歩いた足跡がやがて西大和で芽生えを見ると考えていたかどうかは知るよしもありません。おそらく、ただただ教祖の仰せのままに赴かれたのではないかと思うのですが、その後の布教線と西大和・河内でのお道の拡がりを目の当たりにして、こかんが”神の子”と言われる由縁を見る思いがしました。
さて、この嘉永6年は中山家の母屋が取りこぼたれ(解体され)売り払われています。母屋の取りこぼちについては
という記述がありますが、おはるのみならず、取りこぼちの現場を目の当たりにしていたこかんとて、同じ思いであったでしょう。
浪速布教に先立って父である善兵衛が出直し、姉である教祖の長女おまさが嫁ぎ、前年にはもう一人の姉のおはるが梶本家に嫁いでいきました。
優しかった父が出直し、赤ん坊の頃から時には母親代わりになって育ててくれた二人の姉が嫁いでいった。こかんにとっては心細く寂しい出来事だったことでしょう。
また、この当時のお屋敷を取り巻く状況を、増野鼓雪は次のように記しています。
このように、「こかん様のうた」で歌われるところの、浪速の街の 八衢で、こかんが天理教史上初めて親神の御名を流したというエポックメイキングな出来事の背景には依然厳しい現実があったのです。
こうした状況の中にあって、敢然と十三峠を越えた17歳の乙女の胸の内を想像するとき、巷間ささやかれる「神名流しが目的ではなく、秀司が博打や米相場で失敗してできた借金を返済するためにいった」などという説も、たとえそれが事実であったとしても些末なサイドストーリーに過ぎないとしか思えないのです。もっと言うと、そのサイドストーリーも、肯定的に受け止めることが可能だと僕は考えています。
秀司については前作『ひながたの同行者「中山秀司考」をご覧いただけたら幸いです。
梶本家とこかん
姉のおはるが梶本家に嫁いているので、こかんは後に天理教の初代管長となる真之亮を含む梶本家の子供たちの叔母にあたります。
こかんと真之亮の関係性を思い描く上で、興味深い記述があります。
松谷武一氏の『先人の面影』から孫引きします。
後の初代管長真之亮が、こかんをして「義母」と表現しているのを見つけて、僕はこかんの晩年の苦労が報われたような気がしました。
こかんが出直したのは明治8年陰暦8月28日(陽暦1875年9月27日)でした。
この時、真之亮はまだ10歳です。
『御伝』の第6章「ぢば定め」に、明治7年の出来事として
と記されているように、こかんは出直す以前から甥である幼い真之亮と親しく接していました。恐らく慶応2年6月19日に真之亮が生まれて以来、幾度も櫟本の梶本家を訪い、幼い真之亮をその胸に膝に抱き、可愛がってきたと思われます。むろん、その他の甥姪も真之亮同様に慈しんでいたことでしょう。つまり、後にこかんが後添いとして梶本家へ入ることは、当時の慣習の上からも、またその関係性の上からも、むしろ自然なことといえます。
明治5年(1872年)6月17日に梶本惣治郎、おはるの五男として梶本楢治郎が生まれると、おはるは翌6月18日に42歳で出直してしまいます。
梶本家からの懇望もあり、母を亡くした梶本家の子どもたちを不憫に思ったこかんは生まれたばかりの楢治郎を含め、3人の遺児の母親代わりとして梶本家に入ります。
その段に進む前に、ここでおはるの出直しにつて少し触れたいと思います。
梶本おはるの死
教祖の三女であり、こかん姉でもある”おはる”の出直しの経緯について、僕は納得のいかぬまま青年期を過ごしました。
おはるは「何でも彼でも、内からためしして見せるで」とのお言葉のままに、嘉永7年、立教以来初めての「をびやゆるし」をいただかれた女性です。おはるは安政南海大地震の最中に長男亀蔵を安産されています。
その奇跡的なお産が人口に膾炙したことで人々に「安産の神」と認識され、『御伝』に記されるように「よろづたすけの道あけとなって」文久2、3年頃には、「庄屋敷村のをびや神様」の名が、次第に大和国中に高まっていきました。
また、おはるが嫁いだ梶本家は、立教以来貧のどん底を通られた中山家を、
教祖のご生家である前川家でさえもが愛想を尽かす中、ずっと擁護し援助し続けてくれた、いわば一番の身内であり庇護者でもあります。
そして何といっても、後の天理教初代真柱となる真之亮を生んだ方なのです。そんなおはるの出直しに至るストーリーに僕は強い違和感を覚えていました。
その物語の概要を、一番分かりやすいと思われる『教祖伝入門十講』(矢持辰三著)の記述から引用します。
「神さん、言うたようにしてやったんや。何にも悔やむことないやろ」という教祖のお言葉に、僕は強い違和感を覚えました。「教祖。いくらなんでもそれはないんちゃいますの?」と。
酒の勢いで、普段から不満に思っていたことをぶっちゃけたからといって、何も10ヶ月後に命まで奪わなくても・・・・・・。
信仰的に未熟だった僕には、この信賞必罰的で、なおかつあまりにも救いのない結果がどうにも納得できず、長年悶々としてきたのですが、深谷忠一氏の小論文を見つけた時に、やっと救われたような思いになりました。
長文の引用ばかりで申し訳ないのですが、ザッと目をお通しいただければ幸いです。
この梶本家に起きた大きな事情は、一見、こかんの話からは大きく逸れた感があるかも知れませんが、この延長線上にこかんの梶本家入りがあることを考えると、おはるの死とこかんの梶本家入りが、あながち親神様の計画から外れたものとも思えないのです。そうした上から、あえて長い引用をいたしました。
さて、いよいよこかんが梶本家に入るわけですが、その直前に教祖とこかんの間でこんなやり取りがありました。
こかんが梶本家に入るにつき、教祖から
『それでは三年だけやで。三年の後には赤い着物を着て、上段の間に座って、人に拝まれるようになるのやで』と期限付でお許しが出ました。
こかん自身も梶本家にいくことを望んでいましたので、教祖からお許しがでたことは嬉しかったはずです、しかし「人に拝まれるようになる」というお言葉には強く反発し、
と、周囲の人々に懇願していました。この言葉を知った時、僕はひっくり返るほど驚きました。
こかんは教祖が最も頼りとした「若き神」でした。当然こかん自身もそれを自覚し、教祖の仰せに素直に従って日々を生きてきたものと僕は思い込んでいました。
この言葉は僕のこかん像を根底から覆しました。
神の子こかんの背後から、突如として生身のこかんが立ち現れ自我を表明したのです。
僕が「人間としてのこかん」を意識するようになった契機でもあります。
教祖のこかんにかける思し召しはとても大きく深いものでした。たとえば、
と『おさしづ』には珍しい「若き神、名はこかん。」という体言止めを用いて、その思いを強調さております。この『おさしづ』ひとつとっても、深遠にして切実な神の思いを垣間見る気がします。
また小寒子略伝「増野鼓雪全集22巻」にも
と、こかんが教祖のご期待通りに神の子として教祖の代理をされ、秀司と教祖。あるいは信者と教祖の間を繋ぐ役目をも兼ねていたたことが分かります。
さらに同書に記述される「明治5年、|教祖《おやさま》は75日の断食の間に若井村の松尾市兵衛宅におもむかれ、四日間滞在されましたが、その時同行されたこかんに神懸かりがあったとされ、また、参拝者の増えた慶応三年の頃には上段の間に並んで座られた|教祖《おやさま》とこかんの交互に神懸かりがあったとも記述されています。」という文章からは、当時のこかんはすでに比喩ではなく、実質を伴う「若き神」であり、教祖の片腕でもあったことが分かります。
そう思い込んでいた僕が、
とのお教祖のお言葉に対して、こかんが周囲の人々に
と、心情をあからさまに吐露していたわけですから、僕は驚倒したわけです。しかし同時に、ホッとしたような暖かな感慨を覚えたことも事実です。
”こかんの反乱”ともとれるこの言葉は、こかんが教祖のように「神そのもの」ではなく、神と人、あるいは聖と俗との間を行きつ戻りつする中で、人間的な俗なる感情と一人の女性としての特性や感性を持ち続けていたことの証左なのではないでしょうか。そして、そういうこかんに僕は強烈に惹きつけられるのです。
出直し 聖と俗の狭間で
いよいよこかんの出直しについて触れます。
『御伝』には
と記されています。他にも、こかんが身上になったという記述はありますが、出直しそのものについてはたったこれだけです。あまりに簡単すぎて目眩がしました。
「若き神」とまでいわれたこかんですよ。あんまりじゃありませんか。
でも『御伝』というものの性格を考えると、それも仕方がないことなのでしょう。
仮に『御伝』に「そばな者」一人ひとりの詳細な事歴や人となりを余すところなく記したら、おそらく『御伝』によって伝えるべき肝心の教祖のひながたが不鮮明なものになってしまう。伝えなければならないものを確実に伝えるために、夾雑物を極限まで取り除いたことが『御伝』を『御伝』たらしめているのだと、僕は思っています。
とはいえ、こかんが教祖と共に歩んだ道を思うとき、こかんの最期についての記述は冷淡に過ぎる気がいたしますが・・・・・・。
こかんの死因については公式には明らかにされておらず、唯一といってよい記述が『増野鼓雪全集』の「小寒子略伝」に残されています。
同書に収録される「小寒子略伝」は一時、禁書扱いにされていたと聞きますが、鼓雪ファンはいまだに多く存在し、愛読書として大切にされているファンもおられます。
現在は本部もうるさいことを言わないようなので、諸井政一氏の『『正文遺韻』昭和12年版」と併せて引用します。
と記されています。
この太字部分の記述が事実だとしても、それが『御伝』に記述されていないのは、前述した理由から妥当であると思っています。梶本家での話は夾雑物であるからです。
しかし、諸井や鼓雪の記述の信憑性はともかく、僕はこの記述によって一つの救いを見る思いがしたのも事実です。
結果的には流産し、それが出直しに繋がるという哀しい結末に至ったことを考えれば、やはり「理」は絶対なのでしょう。
それでも、こかんの艱難と忍従に満ちた生涯の最期に、ほんのひとときであっても一人の女性として、妻として、そして母としての喜びに胸をうち震わせであろうことを想像するとき、僕は胸が一杯になるのです。
こかんのお腹の中にいた子の父親は梶本惣治郎としか考えられませんが、
姉が身罷った後に妹が後添いにいくのは普通だった時代です。梶本家の事情を知る周囲の人々は、こかんが後妻であることを肯定的に捉えていたのではないでしょうか。
書類上の婚姻関係になかったことをとやかく言いたい方がいらっしゃったら、小一時間ほど膝詰めで話し合いましょうかね。
こかんの晩年は、教祖の思し召しに反した日々であったかもしれませんが、死の床にあっても、一人の女性として、その生涯で最も平穏で幸せな日々を送れたことに喜びを感じていたのではないかと想像するのです。
流れに棹をさすようですが、ここでひと言添えさせていただきます。
前掲した『正文遺韻』の
「梶本様へ行きて、のちぞひ同様にくらしける」
という文章からは、こかんが梶本家に後添い同様に暮らし、お屋敷へほとんど帰らなかったかのような印象を受けますが、松谷武一氏は『先人の面影』で
など、エビデンスが担保された記述を根拠として、こかんが度々お屋敷に帰っていたと断言しています。
諸井の記述を予備知識のないままに読むと、こかんの晩年の3年間が教祖と絶縁状態にあったかのような錯覚を与えてしまうかも知れませんので、あえて松谷氏の記述をご紹介いたしました。
こかんは梶本家の人となった後も、たびたびお屋敷に帰り、「ぢば定め」という極めて重要な場面でその役割を果たされ、またお屋敷の雑事などもしっかりつとめていたのです。それは取りも直さず、こかんが教祖とお屋敷に従前と変わらず心を繋いでいた証左ではないでしょうか。
明治8年9月27日(陰暦八月二十八日)。こかんは39歳で出直しました。
こかんの死を教祖は嘆かれました。梶本家の人々も、真之亮はじめお子様たちも悲しみにくれたことでしょう。
しかしこかんの死に誰よりも慟哭したのは、神の子として宿命づけられた者にしか分からぬ苦悩と苦労に満ちた道中を、共に歩んできた兄秀司だったと想像します。
「理」は普遍であり、情は儚く脆いもの。
教祖から最も薫陶をうけたこかんです。教祖の崇高にして遠大なる思し召しが分からなかったはずはありません。
こかんは「理」に徹することができなかったのではなく、むしろ自らの意思で「情」から逃げない道を選んだのではないかと、僕は時々思うことがあります。
兄秀司もまた、こかん同様、教祖と信者、そしてお道を思う上から、敢えて理に背を向け、情の道を選んだ人でした。
この兄妹は神の子としての立場にありながらも敢えて”神にならない道”を選んだ兄妹なのです。
こかんの死の瞬間を伝える資料はありません。
でもやはり、満足げに微笑んで出直していかれたと思われてなりません。
その6年後に出直す兄秀司は、その今際の際で、延命を願おうとする桝井伊三郎に対して
『無い寿命を御願ひするのは、それは欲だすセ、理の欲と云ふものだす』
と伝え、苦しみの様子を見せなかったといいます。
秀司の達観した言葉には、先に逝ったこかんの出直しに観ずるものがあったのではないか?と思わせるものがあります。
こかんの出直しについて、諸井政一は
と記し、増野鼓雪は
と、いずれもこかんの死の直接的な原因が教祖の思し召しに背いた結果であると断定し、悔やんでも悔やみきれない悲劇のように語っています。
一時代を画した教学研究界の二人の巨人に異議を唱えるようで気が引けるのですが、ここで牽強付会に過ぎるBe的仮説を記させてください。
結びに代えて ナライトのことなどを少し
僕はこかん晩年の三年間は、見抜き見通しである教祖にとっては想定の範囲内の出来事であったと思っています。
こかんが出直した翌年の明治9年には上田ナライトが入信しており、さらに明治12年に教祖はナライトに側で仕えることと、生涯を独身で通すことを命じています。
そして、明治十二卯年 陰暦二月二十三日の刻限のさしづで、教祖が
と仰せられたことでナライトは「人足社」と定められ、本席飯降伊蔵没後は伊蔵の代わって「おさづけ」を渡すようになりますが、教祖の最初のご計画では、ナライトがつとめた役割はこかんが負うことになっていたはずです。
という記述からは、こかんとナライトが共に「あっけん明王」あるいは「あっけんみょのやしろ」という立場を与えられていたことが分かります。
こかん出直しの直後にナライトがお道に引き寄せられ、わずか3年という異例の早さで「人足社」と認められたという事歴に思案を巡らせたとき、それはこかんからナライトに理が継承された瞬間でもあったのではないかと想像しております。
そこに人間には推し量ることのできない親神様の計画の緻密さと、教祖の思し召しの強固さ、あるいは柔軟性ともいうべきものを垣間見る思いがするのです。
そのように考えた時、見抜き見通しの教祖であれば、こかんが梶本家に入った時点でその出直しを予見されていたとしても何の不思議もありません。
このようにつらつらと妄想していると、こかんが梶本家で過ごした三年の日々に対して、教祖は厳しい「理の仕込み」のお言葉とは別に、その胸の内では暖かく優しいまなざしをこかんに向けておられたのではないかという推論が頭の中で鮮明になってきたのです。
それは教祖の
とのご予言にあるとおり、こかんの魂を初代真柱中山真之亮の長女”玉千代”として、つまり再び中山家の人として生まれ変わらせていることからも感じるのです。玉千代は長じて山澤為信と結婚し、中山分家を立てることとなります。
では、そろそろエピローグへと向かいましょう。
さて、秀司とこかんの二人が歩んだ道は、たびたび理と情の狭間で懊悩する不完全な僕たちの手本として、つまりもう一つの「ひながた」として、今も勇気を与え続けてくれています。
二人のこんなやり取りが残されています。
ベースは『御伝』にあるおなじみの逸話ですが、それとはまた違った味わいがあり、極貧の中にあっても互いを思いやる兄妹の言葉に胸を打たれます。
こかんがその短い人生の最後に、我が子として慈しんだ梶本の子供たちのその後について、「喜び勇んでブログ」さんから省略して引用します。
・松治郎(初代真柱の実兄)
教祖が身を隠される直前の相談に加わり、明治二十年一月十三日の『おさしづ』で「三名の心しいかりと心合わせて返答せよ」と神様から迫られた3人(真之亮・前川菊太郎・梶本松治郎)の中の1人。
・楢治郎(五男)
大正14年1月30日天理外国語学校創立委員建築係
昭和3(1928)年6月26日香川・徳島教務支庁長(昭和10年2月1日まで)
よのもと会四国支部長等歴任
※こかんの姉おはるは、楢治郎を産んだ翌日に出直す。
・ひさ(二女)
教祖の附き添いとしてそば近くに勤め、本教草創時代のあらゆる苦難を教祖とともにした。
明治19年旧正月15日より12日間教祖最後のご苦労を櫟本警察分署でともにすごした。
明治20年4月8日、山澤為造と結婚、男女7人の子供を成人させた。
明治24年9月10日、「水のさづけ」「てをどりのさづけ」を同時にいただいた。
明治43年1月29日、天理教婦人会創設に当たっては理事を拝命、晩年は教祖殿の奉仕を唯一の仕事とし、盆も正月も休むことなく、存命の教祖の側で過ごすのが何よりのつとめであり、楽しみであった。
このように、幼い頃にこかんの愛情と薫陶を受けた子供たちは全員がお道の中枢で、教祖の御心を体してご活躍くださり、後世に道を伝えています。
ことに真柱の真之亮を守ったという事実を前にして、こかんが歩んだ道を「神様の思惑に背いた道」などと軽々に断ずることなど僕には出来ません。
あいかわらず引用の多い長い記事になってしまいましたが、最後に小寒子略伝「増野鼓雪全集23巻」に記される教祖のお言葉をもって、この記事の結びといたします。
教祖は、あまりにも重かった古き着物を脱ぎ捨て魂となった愛娘をいつまでも慈しみ続けられました。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
ではまたいずれ。
(了)
writer/Be.w.o
proofreader/ N.N
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