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逸話の背景「一代より二代」 

「一代より二代」
明治14年(1881年)頃、山澤為造が教祖のお側へ寄せて頂いた時のお話に
「神様はなあ『親にいんねんつけて子の出てくるのを神が待ち受けている』と仰っしゃりますねで。それで一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって末代の理になるのやで。人々の心の理によって一代の者もあれば二代、三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。」

と、かようなお言葉ぶりでお聞かせくださいました。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』90 一代より二代

この逸話は山澤為造さんが25才の頃のお話です。
僕はこの話がとても好きなんです。
特に「神様はなあ『親にいんねんつけて子の出てくるのを神が待ち受けている』と仰っしゃりますねで。」というくだりが。
信仰に引き寄せられている私たちが、等しく神様が待ち受けてくださっていたお互いであることを教えてくださっています。なんと心強いお言葉でしょうか。
信仰初代の方であれば、親という言葉を尊属としての親ではなく、いわゆる”理の親”と置き換えて考えればいいと、私は思っています。

さて山澤為造さんです。今回はこのお言葉をいただいた背景について探ってみます。
為造さんはお屋敷にいんねんの深い方だったのでしょう。若くして教祖から将来を嘱望しょくぼうされた方でした。
為造さんに関する教祖のお言葉は、上記の逸話以外にも『天理教教祖伝逸話篇』に多く残されています。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』69 
「弟さんは、尚もほしい」

(前略)
又、明治十四年頃、山沢為造が、教祖(おやさま)のお側へ寄せてもらっていたら、
「為造さん、あんたは弟さんですな。神様はなあ、『弟さんは、尚もほしい。』と仰っしゃりますねで。」
と、お聞かせ下された。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』80
「あんた方二人で」

明治十三、四年、山沢為造が二十四、五才の頃。兄の良蔵と二人で、お屋敷へ帰って来ると、当時、つとめ場所の上段の間にお坐りになっていた教祖は、「わしは下へ落ちてもよいから、あんた方二人で、わしを引っ張り下ろしてごらん」と、仰せになって、両手を差し出された。そこで、二人は、畏れ多く思いながらも、仰せのまにまに、右と左から片方ずつ教祖のお手を引っ張った。しかし、教祖は、キチンとお坐りになったまま、ビクともなさらない。それどころか、強く引っ張れば引っ張る程、二人の手が、教祖の方へ引き寄せられた。二人は、今更のように、「人間業ではないなあ。成る程、教祖は神のやしろに坐します」と、心に深く感銘した。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』96
「心の合うた者」

明治十四、五年頃、教祖が、山沢為造にお聞かせ下されたお言葉に、「神様は、いんねんの者寄せて守護して下さるねで。『寄り合うている者の、心の合うた者同志一しょになって、この屋敷で暮らすねで』と、仰っしゃりますねで」と。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』120
「千に一つも」

明治十六年の春頃、山沢為造の左の耳が、大層腫れた時に、教祖から、「伏せ込み、伏せ込みという。伏せ込みが、いつの事のように思うている。つい見えて来るで。これを、よう聞き分け」とのお言葉を聞かせて頂いた。又、「神が、一度言うて置いた事は、千に一つも違わんで。言うて置いた通りの道になって来るねで」と、聞かせて頂いた。それで、先に父の身上からお聞かせ頂いたお言葉を思い起こし、父の信仰を受けつがねばならぬと、堅く心に決めていたところ、母なり兄から、「早く身の決まりをつけよ。」とすすめられ、この旨を申し上げてお伺いすると、教祖は、「これより向こう満三年の間、内の兄を神と思うて働きなされ。然らば、こちらへ来て働いた理に受け取る」と、お聞かせ下された。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』133
「先を永く」

明治十六年頃、山沢為造にお聞かせ下されたお話に、「先を短こう思うたら、急がんならん。けれども、先を永く思えば、急ぐ事要らん」、「早いが早いにならん。遅いが遅いにならん」、「たんのうは誠」と。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』より

などが収録されています。
まず山澤良治郎さん・為造さん父子の略歴を記します。

山澤良治郎【やまざわ りょうじろう】良助より改名。
天保2年(1831年)2月22日生まれ
(大和国山辺郡新泉村‐現・奈良県天理市新泉町)
元治元年(1864年)入信 当時33歳
明治16年(1883年)6月19日出直し 53才
元治1年(1864年)姉そのの痔の病を助けられ入信
そのは山中忠七の妻
叔母きみは守屋筑前守広治の妻

山澤為造【やまざわ ためぞう】
安政4年(1857年)1月12日生まれ
(大和国山辺郡新泉村‐現・奈良県天理市新泉町)
元治元年(1864年)入信 当時7歳
大正4年(1915年)管長摂行者に就任 59歳
昭和11年(1936年)7月20日出直し 80才
山澤良治郎の二男
妻(梶本)ひさは初代真柱の姉

父である良治郎さんと同じ日に入信ということになっていますが、7歳のこととて、父に連れられ初めてお屋敷に帰った日ということなのでしょう。
お二人が信仰についた元治元年以前に入信していた高弟には
文久1年(1861年)  西田伊三郎
文久2年(1862年)  村田幸右衛門 村田長平
文久3年(1863年)  辻 忠作 仲田儀三郎
文久4年(1864年)  山中忠七(妻その)
といった方々がおられます。

山澤良治郎さんの姉であるそのさんが山中忠七さんに嫁いでおられるので、山中忠七さんは山澤為造さんの伯父ということになります。

ネットで拾った縁戚図

元治元年(1864年)父の良治郎さんが入信した当時は7歳だった為造さんですが、幼少時より勉学に興味をもっており、明治10年(1877年)に20歳で堺の師範学校へ入学します。ところが脚気かっけと神経痛を発病したため休学を余儀なくされました。
為造さんが故郷の新泉村で静養していたところ、父の良治郎さんからおぢばへの参拝を勧められますが、長年の無沙汰を苦にし、それを断ります。それでも父の強い勧めによって、意に反しておぢばに帰ることになりました。明治11年の秋季大祭のことです。
おぢばでは伯父さんである山中忠七さんの案内で教祖の御前に進ませて頂きますが、その時、忠七伯父が教祖に対して
「神さま、新泉の良助のせがれ引き出しになりました」
と申し上げているのを聴き、奇妙に感じたといいます。確かにちょっと意味を解しかねる言葉ではあります。
「引き出す」とは、「神様が引っ張り出した」というような意味なのでしょう。
この時は教祖よりかしもののお話、朝夕のおつとめの地歌、お手、節まわしなどを教わり、お息をかけていただきました。
その後少づつ御守護を頂き、明治12年5月頃に復学がかないますが、数日通った時にコレラが流行して学校が閉鎖され、再びおぢばへ帰ってきます。 その後、ようやく学校が再開されるという日の朝、父がコレラのような激しい上げ下しに見舞われます。為造さんは学校へ帰ることを一旦断念し、おぢばに帰って父の容態を告げると、「すぐに連れて来なさい」とのこと。
父子はおぢばで3日間滞在しますが御守護はいただけません。水も喉を通らぬ状態が続きます。
ちなみに、この時、三座のお願いづとめを飯降・山中・村田・仲田・辻という高弟の先生方がつとめてくださっています。
当局の取り締まりも厳しい頃でしたので、それ以上の滞在は望めず、一旦新泉村へ帰ることになります。
翌朝辻忠作さんがお見舞いに来てくださり、そのお諭しによって良治郎さんは神様の御用に専念すること、息子の為造さんは学問の道を捨てて神様の教えを学ばせて頂き、講社結成につとめることの心定めをされます。お願いづとめの後に辻さんからおさづけを取り次いでいただいたところ、夕方から水を飲めるようになり、続いておかゆなども食べられるようになりました。
3日目には為造さんの付き添いでおぢばまで帰らせていただけるようになり、その後全快の御守護を頂かれた後は、毎日手弁当でおぢばの御用をつとめさせていただくようになったということです。
と、ザックリと書いてしまうとこんな感じなのですが、実際には父良治郎さんの身上はかなり重篤じゅうとくだったのです。
旧仮名づかいですので読むのが大変だと思いますが、『復元』にある、父良治郎さんの身上のくだりを部分的に引用しておきます。身上をご守護いただかれた為造さんが、どうにか復学したところからです。

「山澤為造略履歴」
従って五日程右伝習生の科にて授業を受けし処、突然校長様より一般生徒に対しての御話には、堺の市中には虎列刺コレラが流行して来た故学校内はなおも注意せにゃならん、って国へ帰りたい者は帰ったら宜しかろ、又治まったら通知するという言い渡しあり。
為に各生徒が帰る事になり、故に為造もその手続をして帰宅致し居り候処そうろうところが、四十日程経て学校より虎列刺コレラ治まったから帰ってよとの通知に接し、為に取敢えず三十日程無理からでも勉強すれば、下級にせよ教員となって小学校へ出られるのである故、明日より堺師範学校へ行こうと、自分の入用の書物なりそれぞれの身の拵えを致し居りしに、当日父親と兄と二人連で百姓の農に行き働き居られしに、午前十一時頃に父親が突然コレラの様に上げたり下痢して苦しまれ、これは一時の事にてそれより兄の肩に頼って内へ帰られ、私は直ぐ水をとりて足を洗い、兄と共に抱きかゝえて布団に寝かして休ませましたが、この時は御守護にて厳しい苦痛は治まりありて、少々の苦しみのみでありましたから、為造私は火鉢の鉄瓶に湯が沸いてある故、茶碗にて砂糖湯を拵えて父の側へ持って行きお上がり下されと申せば、直ぐ一口其の砂糖湯をすゝって呑まれしに、咽喉口のどぐちの処迄通っていてそれより腹中へゆかずして突き返し、為に大変見て居られない程苦しまれました。しかしこれも暫くの間であって、苦しみは治まりましたが、処がそれより何一つも通らず水も湯も呑む事できず、吾が口に湧いた唾が呑み込む事も出来ざる事になられました。
即ち俄然小さい唾吐く瀬戸物を買い求めて、これに唾を吐くばかりの身上になられましたから、家族一同は心配して神様に御願致すと共、親族へ通知して、これが為、為造自身は明日より堺県師範学校へ行く積りしてあるけれ共、これは捨ておき、直ぐ様御地場へ参拝して神様及び甘露台様へ一心に御願を致して、厚顔あつかましくも教祖様の所へやらせて頂き、直接父の身上に付その容体を申し上げれば、御教祖様はじいとうつぶいて居られて、そうして仰せ下さるには、『こちらへ連れて来なされ』との御言葉なり。
故に、為造は又神様甘露台様へ御願いして、直ぐ自宅へ戻りて右の事を父に話を致して、お地場へ参拝しなさるかと尋ぬ。父申されるには、「何も食べられぬから少し苦しい位の事であるから、車に乗って是非参拝させて頂く」との事故、急に人力車を雇い、為造附添うて御地場へ参拝致し、神様へ一心に御願い申し上げて、それより御教祖親様のお居間へ出させて頂き、親様に身上の容体を申し上げて御願い致しいるところ、御教祖様にはこれをあがって見なされと仰せ下されて、お傍にあった加寿かすていらを一切り父におやり下されし故、神様から下されるのである故、必ず食べさせて頂けると思って口中へ入れられしに、のどの方へ呑み込む事できず、為に大変悲しく思いつゝそれを為造が頂かして貰いました次第なり。

父なり為造に於ては神様より直接下された、殊に御教祖様は御自分に手を御つけ下されて、そのうえ下されし結構なカステラ、即ち、御供を頂く事のできぬという事は、まだまだ吾れ/\の心が受取って頂けないのであると懺悔をしてその場を引きとらせて頂き、御勤め場所の多くの方々御座る所へ来て、それより秀司先生に御面会さして頂き、身上の容体をつぶさに申し上げ、御願い申して三日間滞在さして頂き、神様へ御願いさせて頂く手続の事を御承諾の上、(警察署への止宿届の手続は養生の為、空風呂へ入りに来てこの御宿で泊めて頂くという理由)その夜一泊さして頂き候処そうろうところ、翌朝も身上容体は同じ事故、信仰友達の仲田儀三郎、辻忠作、山中忠七叔父を始め、その他の居合わしていて下さる方々は大層御心配の上相談下さるには、「良助様、あなたの身上まだ一寸の食事も出来ずして、水一口も通らんというて困って下さる事は、吾れ/\われわれじいとして見て居られませんから、今晩神様甘露台様へ三座の御願い勤め(朝夕のお勤の通りに)させて貰ったらと思います、如何でありましょう」との御厚意の思召の御話故、父は無論為造に於ても大変嬉しく感銘致し、「何卒宜しく御願い致します」と依頼旁々かたがた御答う。

それより右御願い勤めさせて頂き度(たき)事を、先生方より秀司先生へ御願い御承諾を得て下され、それから御教祖様へ御願い致し下され、御教祖様も御嬉び遊ばし下されし故、御勤めの御準備を成し下されて、午後八時と思います、願い勤めに御掛り下されたのであります。
しかし、もっとも、真夏の事にて大層暑さ厳しく、只今とは違って、御屋敷なり三島村は何れも蚊が沢山で、その真夜中でもあるにも拘らず、恐れ多くも御教祖親様もその場へ(門の横手の十畳一間に御住居遊ばす時であって、勤め場所よりその御居間へ行く一間の畳の渡り廊下の事)御出まし下され、尚又、御本席様も(当時櫟本に御住居の飯降伊蔵様と申居り候)お列席下されて御話し下さるには、「良助さん誠に困って下されますなあ、元々から永らく心安くして居った因縁であるから、かような御願い勤め成さる時に突然引き寄せて頂きましたのである。共々に御願いさして貰います」との御言葉であったのであります。
仲田儀三郎、辻忠作、山中忠七、村田幸右衛門様等を初めその他の方々も共に甘露台様に向って御願い勤め成し下され(御勤めの次第は只今の朝夕の御勤めと同じ事)、初め一同御勤め下された時は何も頂く事は出来ませなんだが、丁度二回の御勤め下されて終ると直に金平糖三粒包んである御供一服下されて頂かれましたら、水一口も通じないのに、その御供三粒すうと嘘ついたように通じさせて頂いたのである。即ち御助けの御自由用頂かれました故、父は無論為造も大変嬉しくて御礼を申し上げた次第であります。

それより引続き三回目の御願い勤め成し下されて、又、その場で御供頂かれました処が此の時には通じないのであります。ついてはお水も通じなかったのであります。前申した如く、右三度の御願い勤め下さる中の二度目終った時に、三粒の金平糖の御供一服嘘のように通じさせて頂けたのみにて、その他の物は何一つも頂けなんだのであります。

しかし、御助け下さる印しに、中の勤めの時に一服通じさせて頂いたので、吾れ/\の精神次第で必ず御助け頂けるものと幾分か安心も致し、神様御教祖様へ御礼申し上げると共に、一同の先生方へも御礼申してその夜休ませて頂きました処、又、その翌朝になりましても矢張やはり水一口も通ぜず、丁度三日の間に前申した如くであって、三座の御願い勤めして頂いた中の勤め済んだ時に、御供一服だけ頂けたのみでありました。
しかれども、御守護によって身上の疲労はたいして無之為これなきために、心では助けて頂けるものと確信致し居り候が、丁度四日目の時に秀司先生の仰せ下さるには、「良助さんまだ水も通らないかいなあ」と。
父曰く「まだ何も通りません」と。秀司先生の仰せ下さるに、「真に困った事やなあ、良助さんすまん事やけれ共、いつ迄も水も通らないとすれば気の毒ではあるけれ共、この上は居って貰いとうても そう永らく居ってもらう事出来んなあ。御宅の方へ帰ってももらわにゃならぬ。というのは、このとおり空風呂炊いて宿屋営業の鑑札を受けて居る仍而よって、警察署から調べに来られたら、左もなくとも始終探偵も来るし若し来られて水も通じない病人を止宿させて居る事が分れば、鑑札取り上げられて罰金までとられにゃならぬ事になる。左様な事になれば多人数の方々もこの屋敷へ帰ってもらい、参拝してもらう事出来ない事になって、第一神様へ対し申し訳けなく、のみならず、御母上にも迷惑かける事になるから誠にお気の毒ではあるけれ共、帰ってもらわにゃならんなあ。然れ共しかれども、医師にかゝって居って此所で空風呂に入って養生して居るという事にすれば説明も出来得るし、申し訳けが立つから宜しいけれ共、水一口も通じない病人が、医師にも掛らずして、只止宿して居るという丈ではほんとうに困る事になるから、他の方であれば水も通じないというてすれば一日も居ってもらう訳には行かぬけれ共、良助さんは外の方々とは違うから三日の間居ってもらったが、何時迄もそう/\永らくという事は規則上行かぬ事になる故、この遍よく御承知下されたい」としみじみ御懇切なる思召し御説明でありました。

この御言葉にて父なり為造の心には、秀司先生の仰せ下さる事は至極御尤ごもっともの御言葉であると十分満足致し居り候。
然るにその時の考えでは、医師に掛る事なれば自宅にて掛る。御屋敷へ詣り出させて貰って、神様にもたれて御願いさせて頂く以上は、医薬の道を頼りにせないとの決心なり。しか彼様かようにして出さして貰って居っても神様に心が受取ってもらえなかったならば、助けて頂く事はできぬ。又内の方へ戻ってでも神様に心が受取って貰ったならば助けて下さるやろよって、秀司先生の仰せ下さる事は御尤ごもっともであるから、自宅へ帰る事に確定して帰る。
身拵みごしらえ致しその夕景より連れ戻りました。その時に甘露台様初め御教祖様秀司先生そばの先生方へと御助け下さる様にと、御暇乞おいとまごいの御挨拶つ御願い申し上げて北の上段の間の神様に(元の勤め場所の神殿)、内の方へ戻らせて頂く事の種々申し上げ御願い致し候。
この時その場へ山中忠七氏(為造の叔父)、御教祖様に直接頂いて来てくれられた金平糖の御供(九服位と記憶す)、これを頂いて帰れというて父に渡し下されし故、その場で一心に御願いしてその御供一服頂かれしに、そこですうと通じました故に、大変心が大丈夫になり、嬉しく、有難く、御礼申し上げて人力車を雇うて実家へ連れ戻りました。

丁度無事に内へ連れ戻りましたが、実に不思議な事には、御地場で丸三日間おいて貰って居る間に水一口も通らないのに、前申した如く二回に御供二服通じさせて頂いたのに、自宅へ戻りて一夜たち翌日朝になっても未だ何一ッも通ぜず。
しかるに身上の衰弱は割合に無之これなく元気もあり、しかれ共、食事は四日間も何一ッも通らなんだのでありますから本人は無論、家族一同は大変心配致し居り候処ろうそうところへ、その日午前九時頃辻忠作先生が御尋ね旁々かたがた御見舞の為御足労下されての御話しには、「未だ食事はいけませぬか、附いては医師に御かゝりに成りましたか」との御尋ね下され、これに対し内の者の云わく「まだ何も通じませぬし医師には掛って居りませぬ」と事実御答え申しました。
しからば辻先生の仰せに「それでは宜しい、第一家内中神様のお話を御きゝ下されて、家内中心揃えて精神を御定め下されて、しっかり神様に御願い下され度い」との御話なり。
ついては真夏の事にて百姓は田地に水が大切の事故ことゆえ、兄の良蔵は汚れたわらぞうりをはいて鍬をかたげて水見舞に出かけましたが、辻先生の眼にかゝりて仰せ下さるには「おい兄さん」とお呼び下されて「お父親とうさんが身上わるくて水も通らず、何一つも食べる事出来ずして困って御座るのに、田の水見舞に行くとは何事でありますか。田ぐらいはほっておきなさい。こちらへ上って家内中共に神様の御話を確かりときいて、皆一手一ッの心を定めて、早く御助け下さる様御願いして下され」との御言葉でありましたので、さすがの兄もその鍬をおろし土足を洗って上へのぼり、家内中打揃うちそろってかな輪に並んで真からお話を聞かして頂くと共に、家内相談致しましたのであります。
第一為造自心に於ては、明日より堺の師範学校へ行こうと身拵えして居るその日の事でありましたから、第一に私の事を御知らせ下されたのであるから、右父の身上に付いて御地場へけつけて御願い申した時に、学校へ行く事と学文を勉強するという事を止めて、御道の勉強をして、今の間は百姓して及ぶ限り御道の講社を結成させて頂き、御道の御奉公させて頂くという心定めをして神様へ御誓い申し上げたのであります。
ついては第一父の一身上に付、今日限り内の働きしてもらう事は一切止めて、内にはいささかもあてにせず、御地場で御道の勤め働きをさせて頂くという決心を定めて、それより神様に御願い勤めをさせて頂き、辻忠作先生に御授けをして頂きました。
しからば少し時間を経て其の夕景から初めて御饌水おみけを通じさせて頂き、引続きところ天・お粥を頂ける様になってすうきりとお助け頂き、家内中打揃って御礼勤めをさせて頂きました。
ついてはその翌日父は為造附添うて、ぼつ/\と歩行して御地場へ出させて頂き、神様甘露台様へ御礼申し上げ、それより御教祖様の御居間へ出させて頂き、結講に助けて頂いた事、つぶさに御礼申し上げました。しからばその場で直ぐと御教祖様御召し下されてある単衣の赤衣をお脱ぎあそばして、父にこれを着なされと仰せになって御下げ頂き、その場で父は自分の着物の上へ着せて頂かれ、引続き為造も着せて頂き、直ぐと脱いでたとんで始末して頂きました。
それより秀司先生及び、居合して居て下されてある先生方にと、それぞれ御礼申しました。皆様も大層御喜び下されて、その日夕景迄あそばして貰って、実家へ戻りて赤衣様は内の神棚へ納め、神様の目標として御祭りさせて頂きました。それより引続いて、父は平素の如く全快にと助けて頂き、毎日弁当持参して御地場へ出させて頂き、専務に勤めさせてもらはりました。

『復元』22号

やはり結構な大病だったようですし、教祖はじめお屋敷の人々も、すわ一大事とばかりに真剣にたすかりを願ってくださっている様子がありありと伝わってきます。
最初に子の為造さんに身上をお見せくだることでおぢばに引き留め、その後一旦は復学するのですが、これもコレラの流行によって再びおぢばに帰ることになりました。これは

さあ/\いんねんの魂、神が用に使おうと思召す者は、どうしてなりと引き寄せるから、結構と思うて、これからどんな道もあるから、楽しんで通るよう。用に使わねばならんという道具は、痛めてでも引き寄せる。用につかわねばならんという道具は、痛めてでも引き寄せる。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』36 定めた心

というお言葉通りの展開です。
その後、父の良治郎さんに障りを付け、当人や子に心を定めさせる。という流れは、まさに
「親にいんねんつけて子の出てくるのを神が待ち受けている」
ですね。

山澤為造さんは明治14年(1881年)4月8日に秀司さんが出直された後、真之亮さんの後見人として家事万端の取締りに当たりますが、この時期に頂いたお言葉が、冒頭で引用した

神様はなあ『親にいんねんつけて子の出てくるのを神が待ち受けている』と仰っしゃりますねで。それで一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって末代の理になるのやで。人々の心の理によって一代の者もあれば二代、三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』90 一代より二代

というお言葉なのです。
こうして時系列にそった背景を知ると、このお言葉がより深い味わいをもって胸に迫る気がします。

山澤為造さんは、明治20年(1887年)、31歳で初代真柱の姉、梶本ひささんと結婚され、後に二代真柱の職務摂行者せっこうしゃをつとめることになります。
明治41年の一派独立時には52歳。脂の乗りきっていた時期です。教団形成の過程で為造さんが行った改革には首肯しゅこうできないものもありますが、それを論じるのは今記事の目的から外れるので触れません。

この時代。大正 11年(1922年)の教会長講習会(3/28 ~ 4/2)で当時のエース的存在であった松村吉太郎さんが教勢の倍加運動を提唱します。この年から天理教は急激に教勢を伸展させていきますが、このとき松村さんが56歳。為造さんは10歳年長の66歳です。倍加運動の是非はさておき、天理教の端境期に教団の重鎮として、天理教団の方向性を決定する存在の一人であったのは間違いありません。

その後の動きを振り返ると、
大正12年(1923年)9月1日、関東大震災。
大正13年(1924年)中山正善旧制大阪高等学校に入学19歳
大正14年(1925年)4月23 日、成人に達した中山正善の管長就職奉告祭が執行されます。その後新管長の主導で教義及史料集成部が創設され、天理外国語学校、天理幼稚園、天理小学校が開校し、天理図書館が設立されました。まさにイケイケの時代だったと言えます。
このように、新管長が教団行政の舵取りを確立するまでの 10 年余り、山澤為造さんは職務摂行を担ってきたのです。
この当時のことに興味のあるマニアックな方は、『見限ったのか見限られたのか』をご覧ください。廣池千九郎博士を軸に書いております。

ともあれ、身上をいただかれ、明治11年の秋季大祭にお屋敷に帰り、
「神さま、新泉の良助のせがれ引き出しになりました」
と聞き慣れない言葉で教祖に紹介された為造さんが、明治14年頃には
「神様は、いんねんの者寄せて守護して下さるねで。『寄り合うている者の、心の合うた者同志一しょになって、この屋敷で暮らすねで』と、仰っしゃりますねで」
とお言葉をいただき、さらに明治14年頃、
「神様はなあ『親にいんねんつけて子の出てくるのを神が待ち受けている』と仰っしゃりますねで。それで一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって末代の理になるのやで。人々の心の理によって一代の者もあれば二代、三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。」
と噛んで含めるように諭され、
明治16年には
「神が、一度言うて置いた事は、千に一つも違わんで。言うて置いた通りの道になって来るねで」
と念を押された方です。
教祖のお言葉を信じて、
「親にいんねんつけて子の出てくるのを神が待ち受けている」
との神意を体現された方だったのだと思います。
おぢばに参拝したくなかった為造青年が、身上を通して神様に待ち受けていただいていたことを知り、父親の信仰を継承してお道の王道を歩み、ついには管長の職務摂行者となる。
学問を志していた頃の為造少年にとっては考えもしなかった人生だったことでしょう。
でも私たちだって、その人生は十人十色の波瀾万丈だったりするわけで。
やはり神様に待ち受けてられていたお互いなのだと思いたいものです。
山中忠七さんが為造さんを
「神さま、新泉の良助のせがれ引き出しになりました」
と教祖に紹介されたように、私たちも神様によって引き出されたのじゃないでしょうか。そう信じて歩みたいと僕は思っています。

よって件のごとし。

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