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ぬいぐるみたちがなんだか変だよと囁いている引越しの夜

普段は心動いたことや好きなことについて書いているけれど、これからは少しずつ「わからなかったもの」についても跡を残しておきたい。

年末の吉祥寺で、初めてマームとジプシーの演劇を観た。
名前をあちこちでよく聞く劇団で、今回は歌人の穂村弘さんの生い立ちをベースに据えた、女性の一人芝居だった。
マームとジプシーのことも、穂村弘のこともあんまりよくわかっていない状態で行ったら、やっぱりちょっとよくわからなかった。

秘密基地のように雑然とした舞台で、くるくると場面が切り替わっていった。個々のシーンはおそらくこういうこと、という検討はつく。

引越しの前夜。片付かない部屋。
溢れ出てくるぬいぐるみたちや手紙たち、そのひとつひとつが質量を備えた思い出を有する。
そこから転じて夜の街を歩き、転じてファミレスで婚約し、転じて歌人の本の装丁が語られ、転じて歌人の父がスライドに映し出され、徐々にノンフィクションに、現在に引き戻される。

個々のシーンでの情景はわかっても、全体を俯瞰したときにこの演劇はなんなのか、それがうまく掴めなかった。

私は最前列のど真ん中に座り、目の前で役者の目が潤み、声が震えるのを確かめられた。でもどうして彼女の目が潤み声が震えているのかが理解できなかった。感情が動かなかった。

理解できなくても気持ちが持っていかれることは観劇していてよくあるけれど、今回はそれもなかった。
理由のひとつは、断片のシーンを繋ぎきれなかったから、あるいは繋ごうと意識するあまり余計ばらばらにしてしまったから。
もうひとつは、属人的すぎて穂村弘に思い入れがそれほどない私には入り込めなかったからだ。

「わかること」がすべてではないけれど、これがいまの私が持つ感受性の上限なんだと思った。
ストーリーとキャラクターに依存しているのかもしれない。

アフタートークで演出家の藤田大貴さんが、「役者に感情を指示したことはない、自分はシーンの配置をするだけ」と話していた。
それを踏まえると、観客に対しても配置だけ見せて感情の手引きをしないという姿勢が伺える。

ちなみにこの演劇を観て最果タヒさんが書いたコラムでは、私が属人的だと感じたのとは対照的に、作品を作者と切り離して楽しむことについて書かれている。
まるで別の作品の感想のようなのに、納得させられる部分が確かにある。
詩人の詩人たる鋭さをまざまざと思い知った。

意味づけを過剰にしないことで生まれる茫漠とした余白。
今回はその途方もなさにぽかんとしてしまったが、いつか豊かに耕せる日が来るのだろうか。


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