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ひめゆり

夏は雑多な匂いの季節だ。
汗とか、雨で湿る土、盆の線香の煙、生き物の死臭。
南に行けば行くほど太陽との距離が近くなって、それらの匂いも濃さを帯びる。

この日、東京の新国立劇場でも、夏の匂いがした。
席の両隣は老年の男性で、遠く糸満の南部病院で嗅いだお年寄りの匂いがした。

演目は「ひめゆり」。第二次世界大戦の終盤、沖縄戦に動員されて生き残った女学生や教師の体験記を、朗読劇にしたものだ。

今回ある意味新鮮だったのは、正攻法だった、ということ。

沖縄でこの手の作品はいくつか観てきた。それは現在の冷めた若者の感覚を織り交ぜたものだったり、基地問題をブラックジョークでくるんだものだったり、地元だからこそちょっと捻られた表現のものが多かった。

今回の「ひめゆり」は、驚くほど愚直だった。
朗読劇という形式も相まって、本当に言葉と身体と最低限の音と光だけ、
物語も忠実に史実と体験記を追う形で、体当たりの勢いを持って迫ってきた。

「お国のために戦おう」と学友を鼓舞していた女学生が、弾に背骨を砕かれて泣く。
置いていかないでと絶叫した先輩が、直後に諦めて「行ってください」と死を悟る。
ひとりでも多く生き延びろと告げた引率教師が、続けて「だが捕虜にはなるな」と言う。
生きてまた学び舎に、と志していたのに、いつの間にか「弾に直撃して苦しまずに死にたい」と思い始める。

矛盾と一言で片付けるにはあまりにも惨い。
これらを言葉で羅列してもまったく響かないだろうことは承知の上で、だからこそ朗読劇というかたちで見せてもらえてよかったと思う。

命は大切だ。
そんなことは誰でも知っている。
聞き飽きて耳を素通りしていく。
素通りさせないために物語のいち役割がある。

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