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怒り

いまさらながら映画『怒り』を観た。沖縄が舞台のひとつになることを知らずに観た。本土から来た少女が米兵に性的暴行をされるシーンがあった。少女は目撃した少年に「誰にも言わないで」と懇願した。少年はやがてある行動を起こし、理由を知った少女は青い海を睨んで叫ぶ。
演技も演出もずば抜けた映画で唯一、その幕引きには全然納得いかなくて、間髪入れずに原作の小説を読み始めた。

映画と対照的に、小説では核となる殺人事件の犯人が比較的早めにわかる。読者には誰が犯人か明らかな状態で話が展開するので、映画より刺激は薄い。つくりが違うのだなと思った。
映画では誰が騙されているのかわからないスリルが前面に押し出され、登場人物と同様に視聴者も疑心暗鬼になる。
小説では、真犯人ではない人物まで疑わざるを得ない葛藤を、読者が俯瞰の立場で味わう。

映画を観て不満だったのは、暴行後の少女が完全に無力化されたように見えたからだ。精神的に参っているという意味ではない。物語に関与しなくなっていく。暴行事件をきっかけに否応なく話は進むのに、それまで見られた少女の能動性は退けられる。暴行事件そのものと、ただ「誰にも言わないで」という彼女の一言が少年の推進力になり、少女自身は透明になる。結末にかろうじて絶叫があるだけだ。

もっと何か、何かあるだろうと焦れて小説を読んだ。期待通り、少女は透明なんかではなかった。少年の行動の後、絶叫で終わらせることなどなかった。自分の頭と心で葛藤して、彼女もまた、重要な行動を起こす。物語を動かしていた。そのことに安堵した。

映画『怒り』は、何を意図して少女を無力化したのだろう。尺の問題か、ドラマチックな誇張か。好意的に捉えるなら、観る側に「何もできない無力感から来る怒り」を、より強く塗りつける効果はあると思った。
あるいは、「現実は容易く変えられない」というニヒリズム。

少女を県外からの転入者にしたのは、ある意味沖縄への配慮なのかもしれない。または沖縄を見ないようにしている本土を皮肉っているのだろうか。

いずれにしても、沖縄が描かれるときそこには戦争か楽園か基地しかない。
激戦地として、美しい観光名所として、政治的軋轢を孕む領土としてしか見なされない。
ふつうの沖縄が見たいと思った。でもいまの時点では、それなら舞台を沖縄にする意味がないのだ。解決されない所与の問題を描かないのは、それらを無視し容認していると言われても仕方がない。

少女の目に映る景色は、いつでも延々と変わらぬ碧い海と空だけれど、酷い暴力の後ではまったく異なるように見えただろう。絶景と悲劇の対比は、物語によく映えるだろう。

ただうつくしいだけの、ふつうの沖縄が描かれる日が来てほしいと思った。

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