十二階のカムパネルラ

宮沢賢治にカムパネルラというから、銀河鉄道の夜を知らないままで観て大丈夫かなと思っていた。杞憂でした。

賢治の生きた時代、を軸にした現代の映画撮影、を私たちが俯瞰で観ているというメタ構造。
パンフレットの相関図で、「人名が多くて大変だなあ」と感じたけど全然問題なく話に入れた。
性格キツめの女優が「きり」、さっぱりショートの女優が「あおい」と、名付けが役(この「役」というのは劇中作の映画内での役…ああややこしい!)にぴったりだったからかもしれない。

名付けといえばそれこそ宮沢賢治の十八番で、「グスコーブドリ」とか「イーハトーブ」とか、それはそれは想像と郷愁を掻き立てる名付けが印象的だ。

今回の作品には「チュンセ童子」と「ポウセ童子」の双子の星が出てくるのだけど、彼らは賢治の作品から引っ張り出されてストーリーテラー的役を担っていた。
9割コメディタッチな彼らが、列車の出発シーンと自らの生い立ちを語るシーンでだけ虚ろな声になって、だいすき!
車掌役(?)の電信柱のような男も、人ならざる長身で朗々としたお声で、大層不気味な存在だった。

列車の発着場所は、いまはもうなき浅草十二階。かつては東京随一の観光名所かつ身投げの名所、まぼろしのシンボルタワー。
「浅草十二階」っていう固有名詞がもうかっこよすぎる。柔らかくもはきはきとしたa音が4つ重なったあとに重厚感のある「十二階」。映える。役者さん特有のドラマチックな喋り方によく似合う。

冒頭のダンスシーン、光のきらきらも相まって、もうほんとうに夢、おとぎ話、激しいのになぜか悲しそうでクライマックスかと思った。きりと高瀬露の、触れそうで触れられない手のすれ違い。すでに泣いてた。

お話から何を受け取るかはもちろん自由で、たぶん本筋とはずれるんだけど、私は今回の劇を観て「消費される人」のことを考えている。

実在した人間を、フィクションとして扱っていいのはいつからだろう。

きりが演じた高瀬露は、劇中作では賢治の滑稽なストーカーとされていたけど、本来の高瀬露はもっとしとやかな女性だった。それが捻じ曲がってしまったのは「作品を面白くしよう」とした後世の人間の意図で、そこには消費者の感覚があるんじゃないかと思う。消費者は娯楽を求めている。面白くしていいのはいつからなんだろう。

そもそも人はみんなメタ構造で見たら滑稽で、哀れで、実際よりだいぶひどいやつなのかもしれない。

最後の最後に「面白い役」を自分から引き受けた高瀬露が、現代で言うところのいじられキャラ、損な役回り、飲み会トークで場を盛り上げられても帰りはひとりになる人みたいな、そんな寂しさがちょっとある。

全部織り込み済みの納得の上で、あえて演じたことはわかっていても。


『十二階のカムパネルラ』
シアターキューブリック
作・演出 緑川憲仁

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