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僕が殺した人と僕を殺した人

海外の小説を読むのが苦手になった。
幼い頃はハリー・ポッターやデルトラクエストに親しんでいたというのに。
高校・大学で一度読書から離れて、読む体力が落ちているのかもしれない。

海外小説を読むことは、異文化に丸ごと身を浸し、人の名前や食べ物、ときには感情の機微まで、自分が慣れ親しんだ文化圏を出ることだ(日本のものでも、歴史小説には同じことが言える)。
旅行すらめったにしない私には、ハードな運動になる。

自分が育て、周りに育てられてきた先入観や固定観念を捨て去る、というと聞こえがいいけれど、そのぶん自分の頭で判断しないといけないことが増える。重要かつ難儀な作業だ。

台湾を舞台にした、東山彰良『僕が殺した人と僕を殺した人』は、まさに先入観を利用したミステリーだった。まんまと気持ちよく騙された。
ただし、異国が舞台だからという言い訳は通じない。
「こういう子どもはこういう大人になるだろう」という、日本でも充分あり得る先入観だ。

それについてあまり言及すると醍醐味がなくなるので他のことを言うとしたら、亜熱帯の夕立のような激しくも切れ味の良い描写が格好良かった。

「喧嘩のための人格に体を明け渡し」

「火の玉のように(中略)殴りあった」

13才の男子中学生が主人公で、彼がどんどん無茶を重ねる様が小気味よく書き留められている。
ところどころ混じる中国語そのままの表記も威勢が良い。

台湾で暮らしながら出自は中国である彼らの環境を見ていると、日頃自分が心がけている「多様性」がどれだけ生易しいものか思い知らされた。
たとえば親の出身のせいで石を投げられる現実がある、というような、これまで知らずに済んでいたことを突きつけられる。

自分と他者との区別が濃厚であればあるほど、家族間、友人間の結びつきが強くなるのだろうか。
血がつながらなくとも「兄弟分」として仲間を想い、血がつながっていればなおのこと護ろうとする。
ただ、誰かを助けたくてやったことがすべて裏目に出てしまう、そんな救いようのなさがあった。

けれど、結末は意外にも綺麗にまとまった印象があった。
まとまりすぎていて、主人公が本心を隠しているのではないかと思ったほどだ。
終盤で実在する小説の引用があり、私がそれを未読だから、より肩透かしを食らった気になったのかもしれない。

あるいは。

この主人公がラストシーンでは45歳になり、人生の往路を終え、「やりきれない人生をどうにかまとめる術」を身につけている表れなのかもしれない。私にはまだその技術がない。単にその違いなのかもしれない。

何十年後かに読み直したとき、違う読後感を得られる人間になっているだろうか。


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