東京芸術祭
野外劇 『吾輩は猫である』を観に行った。池袋の東京芸術劇場、そのエントランス前に舞台が組み上がり、駅へ向かう人の目につくところでの上演だった。
人と猫が入り混じって、つぎはぎに場面がうつっていく。猫というか狐の化かし合いのようだった。
とにかくいつでも機嫌の悪い珍野教諭と、気まぐれにからかい去っていく猫たち。74名の大人数がいちどきに舞台へ駆け上がる様が圧巻だった。
登場人物は少なくて、でも一役を5人や7人でやるから目が忙しい。
没個性的にならないようにあがけばあがくほど…というのがおそらく主題のひとつだった。私は人混みに紛れて安心する質だからわからないけれど、登場人物がとにかく威勢良く名乗りをあげる理由は、その他大勢になりたくないという意思表示に思えた。東京で観るべき作品だった。
終始ポップで自然に笑いを誘う雰囲気もある中で、涙が出たシーンのことを書いておきたい。
74人を男女役に分けて半数ずつ、ひとりひとりが役名でなく実名を名乗るシーンがあった。
「吾輩は◯◯である。名前は〜〜である」
◯◯の部分は出身地や職業、性格、容姿の特徴、年齢、趣味、各々が好きなように表現していた。名前の後にさらに一言付け加える人もいた。新学期のクラスのように、短い挨拶を順繰りに交わして、言い終わったそばからコーラスに入っていく。それを74人分観ると、否応なくその人たちのこれまでが垣間見られて涙が出た。
「私は髪が長いものである」
「私は音楽を愛するものである」
「私は5人の孫を持つものである」
中でも堪えきれなかったのは、
「私は19歳である。名前は〜〜である。これからどうしよう」
と消えそうな声で言っていた女性だ。
根拠もなくあなたは絶対に大丈夫だよと言いたくなってしまった。
私の席の隣には、髭の伸びた老人が座っていた。風向きによっては少し臭ったかもしれない。前に座る人は観劇中に写真を撮って後から注意されていた。小劇場なら気になっただろう。まあいいか、と思えたのは、野外劇の風通しの良さがあったからだ。
仕事帰りに、下校中に、路上でこういう空間が観られるのは豊かだ。
加えてこの公演は、当日券が500円、立ち見なら無料で観ることができる。
フライヤーを見ると様々な団体のロゴが入っていた。都からなのか区からなのかどこかの財団からなのか、何かしら補助が出ているのだと思う。
文化庁も並んでいた。
私はあいちトリエンナーレが中止のみならず、補助金を打ち切られた理由に納得できない。
文化や芸術はいいものだから、国民が楽に味わえるようにしよう、というのが補助の目的のはずだ。この場合の「いいもの」とは、観ていて気持ちがいいとか何らかの得があるとかではなくて、「ただ観る価値があるもの」と言えるんじゃないかと思う。誰かの都合が悪くなるにせよ、観て識る、感じる価値のあるもの。
すべての創作を保護しろとは思わない。ただ、一部の創作者の「やりたいことは自費でやれ」にも賛成しかねる。
消費者として言わせてもらえば、残念ながらフィーが安くて困ることはない。
届ける側からすれば、それは広く届けられるという保証なのだ。
『吾輩は猫である』が、今日の日本で観られてよかったと感じるのは、作品の良さと上の人たちの「判断」両方の面からだ。
後者については、これから懸念していかなければならないのを、面倒臭いし悲しいと思う。だけれど。どうなるのか気にしていかなければならないのだろうと思う。
野外劇は今月の29日まで。
https://tokyo-festival.jp/2019/
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