親が死んだら公開するはずだった話

※設定がよくわからなくてすでに公開になっていたので、もうそのままオープンにしておくことにする。

父親について。

テレビでニューハーフのタレントが出ていると必ず「気持ち悪い」と言ってチャンネルを変えた。歌やお笑いは総じてくだらないと言って報道番組ばかり見ていた。そのくせ5分と同じものを見続けることはなく、仕事を終えて帰宅してから寝るまで、延々とザッピングをするのが習慣だった。

母親は結婚を機に専業主婦となって、子どもと夫の世話を焼き、親戚付き合いを大事にしていた。私が宿題や故障した家電や新聞記事について質問すると決まって「難しいことはお父さんに聞いて」と返答された。

父が母に礼を言うのも、「いただきます」や「ごちそうさま」を唱えるのも聞いたことがない。兄も同様に育った。父や兄が台所に立つ姿は見たことがなかった。

家父長制の色が強い家庭で私が大学まで出られたのは、父が私のことを女ではなく子どもとして扱い、子は学ぶべしと考えていたことが幸いしたのだと思う。それだけでも幸運だった。

そういう点では、いい親だったとは思う。殴られたり罵られたりすることも、飢えることもなかった。ただ尊敬できるかと問われれば頷けない。
ひとり暮らしをして7年、実家に戻りたい、親の声を聞きたいと思ったことは一度もないし、できれば二度と帰りたくない。

ただ最近になって突然、ある考えが芽生えた。きっかけはわからないが、これなら父親を理解する余地があるかもしれない、と初めて思えた。

父は叩き上げの労働者だった。高校卒業後に沖縄から本土に渡り親戚の家に身を寄せて、肉体労働をしていたという。ときはおそらく70〜80年代、悲願の本土復帰を果たしてもなお差別を受けていた頃合いだ。
そのときの話を聞いたことはない。ないけれど、父の青年期がどういう時代だったか想像はできる。

沖縄の心とは、と聞かれたその頃の県知事は、「やまとんちゅになりたくて、なりきれない心」と答えている。

マジョリティから弾かれたマイノリティが、マジョリティの模倣で別の誰かを弾く。男なら女を。夫なら妻を。あるいは性的少数者を。よくある構図だった。

すべて単なる想定だけれど、積極的に嫌悪していた父親のことを、諦めることはできる気がした。
もし私の想定が的を射ているならば、許す気にはやはりなれなくても、事情は了解できると思えた。

後に生まれた私には、取り返しのつかないことだ。

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