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ペスト

書店で面陳されていたうち最後の1冊になっていた、カミュの『ペスト』を買ってきて読んだ。いま多くの人に読まれており、多くの人が言葉を尽くしているだろうこの小説のことを、わたしも書き残しておきたい。

作品にのめり込むまでは、語り口に慣れなくて何を言っているのかわからない箇所もたびたびあった。
時代と地域が遠くなればなるほど当然、言葉は共通認識の範囲を超えていく。それとかあれとかの指示内容がつかめない。省略された目的語を補えない。特に宗教に関する部分は完全にお手上げだった。雰囲気で把握できたかどうか、といったところだ。

それでかなりの時間を要してしまったけれど、小説の中程まで進むとそんな些事には構っていられなくなった。夢中になって読んだ。

読了してわかったのは、『ペスト』は大多数の熱狂的な感情に混ざれない人々の記録だったということだ。
親しい人間を亡くした人、長い別離に耐えられず愛を維持できなかった人、ただいつもの生活が回復されることによって死ぬような思いをさせられる人が、取り残されていく。

3行で片付けられる死もあれば、苦しみ抜く記述に7ページも割かれている死もある。さらに特筆されなかった夥しい数の死がある。「1万人の死の詳細を見ると、1つ1つの喪失が1万人分ある」といくら言ったところで、自分を中心にして遠いところから近いところへ、私たちは確実に命の重みに差をつけてしまう。病疫そのものだけでなく、そのことに対しても疲れてしまう。

その中で主要人物であるリウーは、すべての事態を現場で観察した医師の立場において、終盤でこう記録を残す。

人間のなかには軽蔑すべきものよりも賛美すべきもののほうが多くある

極度の無力感と混乱の中心にいたリウーがそのように結論づけられるのは、信念ある彼の友人たち、特に危険を承知で保健隊に志願したタルーの存在が大きいのだと思う。あまり多くを語らないタルーが、リウーに対してはこのように打ち明ける。

「誰でもめいめい自分のうちにペストをもっているんだ」
「ちょっとうっかりした瞬間に、ほかのものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけちまうようなことになる」
「ほとんど誰にも病毒を感染させない人間とは、できるだけ気をゆるめない人間のことだ」
「実際、リウー、ずいぶん疲れることだよ、ペスト患者であるということは」

いまのご時世ではそのままダイレクトな意味でも通用するが、もちろんここでの「ペスト」はあらゆる害についての比喩である。

つまりこの緊急事態をやり過ごせても、なお保菌者のように注意を払って、意図しない殺人に加担せぬようにすべきだとタルーは言う。考えただけで気が遠くなるようなことだ。

死刑のある国で育ち、適正価格と適正給与は崩壊し、フェイクがあふれるインターネットに浸っていると、それは、とても難しいことだ。読書は私に難しいことばかり教えてくれる。

リウーとタルーは、ペスト最盛期の夕暮れどき、その困難を共有しあう。まるで「ペストもここまでは上ってこなかったよう」に穏やかな郊外のテラスで、タルーは上記のように胸の内を語る。ほんの少しの息抜きを挟んで、ふたりはまた病巣の町へ帰る。

烈しい病疫の最中でひととき風が止むような、そのシーンを愛さずにはいられない。ゆえにタルーの信念を無視できない。

嵐の中でひととき、風が止む瞬間を求めている。

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