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PATERSON

LEONを観た翌日に、『PATERSON』を観に行った。LEONはNetflixだったけど、こちらは吉祥寺の新劇場で。

バスの運転手・パターソンは、自分と同じ名前の街に、妻のローラと犬のマーヴィンと暮らしている。毎朝6時過ぎに目を覚まし、勤務時間の合間に詩を書き、帰ったらマーヴィンの散歩をしながら行きつけのバーに寄る毎日。詩を発表して喝采を受けたり、街を牛耳るマフィアの陰謀が持ち上がったりは一切しない。

本当になんでもない、日常と呼ぶにもあまりにドラマチックさがない単なる「生活」。
残念なことに、途中まではその良さがあまりわからなかった。

物語を眺めるとき、私はまだどうしても展開をつかもうとしてしまう。
何が伏線になっていて、これから何が起きるのかを予測しようとしてしまう。
PATERSONはそういう映画じゃなかった。感情の起伏はずっと穏やかで微細で、喜怒哀楽のセンサーが鈍いと「それどういう意味??」となってしまうシーンも多い。
パターソンがあまりに落ち着いた男であるため、奔放な妻への一言ひとことが本音で愛しているゆえなのか我慢しているものなのかも私には判断が難しかった。

このように映画リテラシーがまだまだ低いので、味わうためには補助線が必要になるときもある。今回の場合は先日のLEONだ。

意識的に結びつけたわけではないけれど、パターソンの淡々とした繰り返しを眺めていて、
ああこれは、レオンとマチルダが生きたかった未来かもしれないと思えた。叶わなかった、愛する人との続く生活。奪われる心配のない幸福。

生死と愛とは誰にとっても切実なテーマで、それを際立たせるためにそれぞれ闘争と孤独がある。LEONではそれが顕著だった。PATERSONでは生はあれど死はなく、愛はあれど孤独はない。少なくともパターソンの毎日には。詩を書く時間は孤独かもしれないが、家に帰れば最愛の他者がいるのだから。
対比構造になっていないので、人生の経験値が浅い私には難しいところもあったんだろう。

思えばPATERSONを観て尊さに涙を流さなかった私は、恵まれているのかもしれない。その生活を「当たり前」だと認識している時点で。

数年後、数十年後にまたこの映画を観て、そのときはどう思うだろうか。
英語詩の良さは理解できるようになりたいけれど、願わくば同じように、「当たり前」だと思っていたい。私のいまの退屈な日常を、ひとかけらも失っていませんように。

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