5/1 不感の安寧
これは配慮のない文章です。
春先からの緊急事態宣言に全然参っていない。
びっくりするほどいつも通り職場に行くし食材は買えるし、大勢の人と集まって話す趣味もないから寂しくもない。
離れて住む親の死に目には会えないとしても、それは一人暮らしを始めたときから了解していた。
映画館と小劇場と飲食店に行けないのは窮屈だが、だからと言って死ぬわけではない。少なくとも、私は。
私の生活が保たれているのは物流と小売の現場にいる人のおかげなのはわかっているし、医療従事者が地獄のような環境に置かれているのもうっすらと知っている。感謝の念はあれど、それは常日頃の感謝とさして変わりない。
感染症に対してのおそれや不安が欠片もないのだ。だから他者に対しても、こんな大変な中ありがとうございますと口では言えても、心はそこまで伴っていない。
自分の職場がリモートワークに不向きなことを実感して、早々に諦めたのかもしれない。「罹患したくない」ではなく「罹患して当然」という気持ちがずっとある。反していままで無病息災なことにむしろ驚く。我ながら舐めている。
数々の署名運動やクラウドファンディングにもそこまで心が動かない。政治が不十分なときにこういう行動をすることは善だと思う。それは心の底から思う。思いながらぼんやり見ているうちに目標を達成していき、まあよかったな、くらいの無感動さだった。
ただ運の良さに甘んじて経済的な危機に(いまのところ)瀕していないだけなくせに、この態度は何事か。そう言われたら返す言葉もない。でもなんにも感じないのだ。
命が脅かされるとき、私はあっという間に生きるための機能以外をオフにして、感受性を削ぎ落とせるのだと気づいた。
それはとても生きやすく、安寧ですらあった。
しかしこうした態度はきっと、歴史を俯瞰して見る限り愚かなのだと思う。一時的にはタフでいられても、何も感じない、ゆえに抵抗をしないというのは悪手だ。
わかってはいるもののそれでも心は動かない。だって何を言っても何をしても、異なる立場の人にぶつかってしまう気がする。同じ地平線にいるつもりが悲しいほどばらばらだ。家にいられるのはリモートできる職種だけ、文化を守る寄付ができるのは食い詰めていない人たちだけ。そうしてぶつかってしまうことに、私はたぶん気づけない。
困っている知り合いは連絡をくれとtwitterに流した。そんな言い方で手を挙げられる人は少ないと知りながら、そんな言い方しか知らなかった。
この文章を残すことだって自罰的な感情がゼロではない。ただそれを感知する機能をオフにしているから書けるのだ。
不感の精神を脇に置いて理屈でなんとか決めたことは、10万円が支給されたら7割は地元の食えていない子どもの糧にすること、3割は経営難の書店に寄付すること。始めは前者に全額費やそうと思っていたが、私に利があるのは後者なんだよなと思ってしまった。
本当は、救いたいものがもっとたくさんあるはずだ。直視するとやりきれないから、意図的に鈍くして自分を守っている。浅はかだ、と自虐することで人から非難されるのを防いでいる。
これはつまり、ある意味では「参っている」ということなんだろうか。
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書いていたら少し落ち着いた。
考え方を変える必要がある。
いままでは、他者を傷つけることが悪だった。だから何も言えなくなってしまった。何も感じないようになった。
これからは、どんな立場の人を傷つける可能性があるか、誰を助けて誰を助けないことになるのか、想定しながらしゃべらなきゃいけない。もちろん故意に攻撃的な言動をするわけではないけれど、自分が助けてもらう側になるときまで、その役割から降りることはできない。
覚悟がいる。本当に面倒くさい。できれば綺麗で無害な言葉だけ扱っていたかった。
でも綺麗で無害な言葉だって簡単に人を刺すのだ。いままで自覚がなかっただけだ。
こっちはこっちで守るものがある。申し訳ないがそっちは任せた。八方美人ではいられない。許してもらえなくてもいい。
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