見出し画像

存在のない子供たち

何度も見逃して諦めていた映画が早稲田松竹でかかっていた。大袈裟でなく運命的なものを感じて観に行った。あらすじを聞いたときから、観なければと思っていた。

推定12歳の少年・ゼインの描かれ方が誠実だった。外国の貧しい被虐待児としてだけではなく、善悪併せ持つ生身の人間として存在していた。
ゼインは学校に通えず路上で働かされている。親に叩かれ罵られる。妹は11歳で嫁に出される。
でもそれだけではなく、ゼインは悪態をつくし、盗みも働くし、家出をして薬物を売る。
さらに妹の生理を隠すために自分の服をナプキン代わりにしたり、違法滞在で捕らえられたシングルマザーに替わって乳幼児を育てようとしたりする。

苛烈な環境下で生きるため強かに法を犯し、一方で何かを守ろうともする。ただの受動的な子供ではない姿に打ちのめされた。

それでもなお、ゼインの守ろうとしたものがことごとく奪われるのは、彼がどうしようもなく子供だからだ。この映画には大人と子供の隔たりがある。

ゼインの母は、神を信じて、失ってもまた恵みを授けられると言う。母にしてみれば恵みは代替可能だ。おそらく彼女はゼインよりも数多く、何度も何度も失ってきたからだと思う。相対的に、ひとつひとつの喪失に対してさほど揺るがずにいられるのかもしれない。
しかし、ゼインにとって失われたものは永遠に戻らない。少年の喪失は何をもっても埋められないほどに大きい。

映画が進むにつれて、ゼインは歌ったり冗談を言ったりする余裕が徐々になくなり、中盤以降は生活をするためだけの発話しかしなくなる。だがあるとき、テレビの生放送番組に電話をかけ堰を切ったようにこれまでのことを訴える。
それが契機となり、こんな地獄に自分を産んだ両親を告訴するという手段を取る。

裁判でゼインの母は、血を分けた子供に砂糖と氷しか食べさせてやれない苦悩を語る。ゼインを擁護する弁護士に、「私の置かれた立場を考えたことなんてないだろう、いままでも、これから先も」と噛みつく。そのときの涙は、裁判を有利に進めるための小芝居とは思えなかった。
母が苦労するシーンは映画中ほぼ描かれないが、描かれなかったものがある、ということが透けて見えてくる。
ちなみに弁護士の役は、監督のナディーン・ラバキーが演じていた。彼女が自分の立場をどう捉えているかが、ほのかに伝わってきた。

両親に対するゼインの答えは、裁判を終えてもやはり「世話できないなら産むな」に尽きるのだと思う。きっと彼は、家族のもとには戻らない。
それならどこに希望があるのかと途方に暮れそうになっても、ゼインはラストシーンで嘘笑いではない笑みを浮かべる。100%の笑顔ではないが、だんだんと表情が抜け落ちていく展開の終わりに、緩んだ頰を見られたことは幸いだった。たった数十秒の場面で、これまでの地獄を打ち砕く手始めを描いてくれていた。

観終わって気づいたのは、私の視野の狭さは自分を守るためにあるということだ。
これまで見聞きしたすぐそばにある地獄を思い返すとき、私は半径5mの世界にいるから、被害者意識を持てる。
ただこれを地球規模に広げると、私の知っていることを遥かに凌駕する阿鼻叫喚が次から次へと現れて、たちまち私は自罰的な気持ちになる。
直接の加害者ではないけれど、傍観しているだけでは無実とは言えない。
それを実感したくなくて、無意識に視野を狭めたままでいた。
自分の生活を維持しながら、温室を出る準備をしなければいけない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?