
BDDNEWSレター 2023.4.1 NO.90
◇◆◇3月とボンゴボンドゥ◇◆◇
【3月7日の演説は国民への誓い】

ユネスコの世界記憶遺産に登録されたボンゴボンドゥ*・シェイク・ムジブル・ラーマンの3月7日の演説は、ベンガル(バングラデシュ)人の独立への気持ちを奮い立たせ、パキスタン占領軍に立ち向かう気持ちを団結させた国民への誓いだったと、専門家らは述べた。
「ボンゴボンドゥの演説は歴史的な演説というだけでなく、ベンガル人への誓いでもありました」
ダッカ大学(DU)の元副学長AAMSアレフィン・シディック氏はBSSとのインタビューで、3月26日未明にボンゴボンドゥが独立を宣言した後、ベンガル人はすぐに独立戦争へ飛び込んだと述べた。
「ボンゴボンドゥは演説の中で、あなた方すべての家を要塞に変え、持っているものすべてで敵に立ち向かい、たとえ私が命令を下すために周りにいなくても戦うよう呼びかけたのです」
ボンゴボンドゥは当時のモイダン競馬場で演説し、それを聞いた7500万人がその日、独立戦争の戦いを誓ったという。
アレフィン氏は3月7日の演説は単なる演説ではなく、叙事詩であったため、「ニューズウィーク」1971年4月5日号のカバーストーリーで、ボンゴボンドゥを「政治家詩人」と呼んだのだと述べた。
また、ボンゴボンドゥが独立戦争中の1971年にパキスタンの刑務所に送られて不在のときも、この3月7日の演説が国を導いたとして、演説そのものがボンゴボンドゥの存在だったと述べた。
「この演説がSwadhin Bangla Betar KendraやAkash Vaniなどのラジオ局で放送されたとき、それを聞いたすべての人の心に響きました」
DUのMdアクタルッザマン教授は、3月7日の演説は国民全体を団結させ、最も待ち望む自由への準備に入らせたとし、その中には戦いのために必要な指示とガイドラインがすべて含まれていたと述べた。
偉大な人物はたった一度の演説で、国民全体を一つの傘に収め、事実上の主権者となり、カーストや信条、性別、宗教に関係なく、すべての人心をつかむ。
それは、ボンゴボンドゥが、多様な階級やコミュニティに属している個人の関心や興味をよく理解していたからであり、懸念に対して平等に対処することができたからだとアクタルッザマン氏はいう。
演説は独立戦争の勝利にとどまらず、世界中の自由を愛する民主的な人々を鼓舞するものだった。
「この演説の関連性と意義は、今後も同様に有効です」
DUのムハンマド・サマド教授によると、ボンゴボンドゥの娘シェイク・ハシナ(現首相)氏は1981年の帰国後、次世代に贈るために3月7日の演説の普及に取り組み始めた。
ハシナ氏のイニシアティブで、ボンゴボンドゥ記念トラストは2004年から演説に関するセミナーを開催、国民や次世代に演説を広める上で重要な役割を果たした。
このイニシアティブにより、ユネスコ常設代表部とパリのバングラデシュ大使館は、「ボンゴボンドゥ・シェイク・ムジブル・ラーマンの歴史的3月7日演説」と題する書籍を、国連の6つの公用語であるアラビア語、中国語、英語、フランス語、ロシア語、スペイン語で出版した。
サマド氏によると、「We Shall Fight on the Beaches」という書籍や、著名歴史家のジェイコブ・F・フィールド氏の著書「We Shall Fight on the Beaches: 歴史に影響を与えた演説」にも掲載された。
「スピーチの心理分析をすると、この即興演説にはボンゴボンドゥの心の中の言葉が非常にシンプルに反映されていることがわかります。つまり演説ではなく、会話と呼べるかもしれません」
DU元副学長のアレフィン氏は述べた。
*ボンゴボンドゥ:ベンガルの友人という意。独立の父シェイク・ムジブル・ラーマンに対して親しみをこめて呼ぶ。
Financial Express Mar 6 2023
【独立戦争の犠牲者に黙とう】

53回目の独立及び建国記念日を祝うため、アブドゥル・ハミド大統領とシェイク・ハシナ首相は早朝、ダッカ郊外シャバールの国立記念館に花輪を捧げ、独立戦争の犠牲者に敬意を表した。
まず大統領が、続けて首相が記念碑の祭壇に花輪を捧げた。両者はその後、1971年の独立戦争の犠牲者に深い敬意を表して、黙とうを行った。
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