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デリカシー欠乏症

誰しも触れられたくない記憶や体験はあるものだと思います。
誰かと同じような体験をしても、感じ方はその人によって様々です。
そんな事と軽く受け流す人もいれば、重大に受け止める人もいます。
その人が置かれている環境によっても変わるでしょうし、降りかかった出来事をどう受け止めるかは、もう個人の考え方というより運ゲーみたいなモンだと正直個人的には思ってます。

だから人が体験した様々な出来事に対し、軽々に「そんなこと」とか「大した事ない」とか断じられてしまえば、それは拒否反応も出るってもんです。その体験が重大かどうかは、その人にしか判断できませんから。


数年前、朝起きたら突然体が動かなくなり、方々に迷惑をかけ続けた末にようやく通えた心療内科。
しかし先生がボケてるのかやる気がないのか、何を話しても同じ返事をして同じ薬を処方し続けられたので、駐在(?)カウンセラーにそこも含め当時の悩みを打ち明けたところ、「そんなもん全部考えすぎ、お前が悪いし考え方を改めれば良くなる」とバッサリ切り捨てられました。その日のうちにその心療内科からサヨウナラしたのは昨日の事のように覚えています。

今にすれば随分なハズレクジを引かされたと多少引き攣りながら笑えますが、その先生(と呼ぶのも烏滸がましいおじいちゃん)とカウンセラーには、考えつく限りの罵詈雑言を心の中で浴びせてやりました。
もちろんそんな事をしたところで溜飲は下がりません。

残念なことに、立場や肩書きに関係なく、相手を壊しかねない発言をしてくる人は大勢いるんだと、この歳になってようやく気づきました。しかもそういうデリカシー欠乏症の人間は案外身近に潜んでいます。更にその人たちの殆どは無自覚にノコギリのような言葉を軽々に振り回します。本当に困ったもんです。笑っていられる今はまだ運ゲーに乗れているだけなんでしょう。


傷付けられた心は、時間や経験の積み重ねで少しずつ薄れさせていき、いつか気がついたら血が止まり癒えているものだと思ってます。本当に時間がかかりますし、最悪一生引き摺る可能性もあります。誰かに大丈夫なんて言ってもらいたくないって思ってます。

こうした話を書くたびに思い出すのは、過去に自分が傷付けたであろう人たちです。見知った他人や見知らぬ他人の事をとやかく言いながら、きっちり自分もやることはやっています。今思い出しても自分の口から吐き出された無自覚で凶悪な発言がありありと思い返せます。

もう私なんか思い出したくもないし名前を聞くのも嫌、と言う人はいるでしょう。ただ、もしかしたらなんとも思ってない人もいるかもしれません。想像というより虚構や妄想に近い思考ですが、ともあれ自分で傷つけた人の気持ちを慮るなんてそれだけでも虫のいい話です。

何よりこうして書くことで自分の責任を醸しながら反省してる風を装い、さも清廉潔白になりましたよと語って現実から逃げようとしている様が、本当にたまらなく惨めです。醜悪と言い換えても間違えてないと思います。

まずはこんな惨めったらしい姿を晒していることを自覚するところから始めなくてはいけません。梅崎春生先生の言葉がリフレインする1日でした。

別の記事でもリンクを貼りましたが、本当に素敵なマインドが詰まった一冊です。


本日も最後までお読みくだりありがとうございました。



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