小説『虹をつかむ人 2020』第十章 Novel "The Rainbow Grabber 2020" Chapter 10

第十章

 元部下の石川を除けば、辞めた会社の人間と会うことはなかった。石川とも二度しか会っていない。
 一度目は虹捕獲師の初級研修が終わって、山を下りた翌日に、私の方から誘った。特に意味はないが、人恋しくなったのかもしれないし、昔の自分のいた世界を見収めるつもりもあったかもしれない。どちらにしても深い意味はない。以前行ったことのあるジャズを聴かせるバーで軽く飲んだ。石川が私の仕事に就いて尋ねたので「非営利団体で技術職を担当している。これ以上は守秘義務があって話せないんだ。悪いけれど」と答えるしかなかった。石川はわかったようなわからないような顔で頷いた。わかったようには見えなかったし、立場が逆ならわかるはずがない。石川から私が辞めた後の、会社の状況を聞かされた。よくわからない新規事業が立ち上がり、軌道に乗ったものもあれば、そうでないものもあった。私がいた頃よりも、面倒くさいな、というのが正直な感想だった。
「大変だな」と相槌を打った。他人事のような、無責任な感想に聞こえないように気をつけた。どのように聞こえたかは石川にしかわからない。
「渡辺さんがいた頃の会社とは全然違うんですよ。何もかもが」と、石川が頻繁にと言うのが少し気になった。気にはなったが、かけるべき適当な言葉は見つからない。
「大変だな」と重ねて私は相槌を打った。
「大変ですよ」と石川は苦笑した。会社のことは会社の人間にしかわからないというサラリーマン特有の苦笑いだった。
 その夜は中途半端に飲んで別れた。何か聞き忘れたことがあるようにも思ったが、飲んでいるときには最後まで思い出さなかった。部屋に帰って、眠りに落ちる前に思い出した。そうだ部長が元気かどうか、聞きそびれた。最後まであの人とはわかり合えなかったけれど、それはそれとして、それなりに恩はあった。その後を気にかけるほどには世話にもなった。。部長は元気だろうと思った。あの人は人をうまく利用しながら出世する人だから何も心配はいらない。
 私は早期退職募集に応募したのだから、自己都合ではあるけれど、きれいに辞めた部類に含まれると思う。だからたとえば元同僚から「ちょっと会おう」と誘われれば、特に断る理由もない。こちらから誘うことも不自然ではないし、特に避けられるようなこともないはずだ。それにもかかわらず、誘われなかったし、誘わなかった。会社にいた頃から、私は社交的な人間だと思われていなかったからだろう(その通り。実際に社交的ではない)。もう一つ理由を挙げるなら、当然されるであろう「今どんな仕事をしている?」という質問に、私がうまく答えられないからだ。財団の存在は秘密ではないが、捕獲師の存在や活動に関することは守秘義務事項に分類される。たとえば「非営利団体で技術職を担当している。これ以上は守秘義務があって話せないんだ。悪いけれど」という答えで、一体、誰が満足するだろうか。
 石川と二度目に会ったのは、あの夜から三カ月後、記録的な長雨が続き、虹どころか青空さえも忘れた頃だった。私は他にすることもないので、シャーロック・ホームズの全集を読むために雨の中を図書館まで出かけて、エンドレスで読み続けていた(何度か読めばワトソンがホームズを出し抜くこともあるかと思ったが、もちろんそういう奇跡は起こらなかった)。
「忙しいですか? もし暇だったら、明日、飯でも、どうですか?」
「忙しくないよ。忙しいのはシャーロックだけだ。私も含めて、皆、暇だ。飯を食おう。どこで?」
「シャーロック? 誰です? ガイタレですか? 飯は我が家で、どうですか? 妻が直接『お礼を伝えたい』って言ってますから。面倒じゃなかったら、ぜひ」
「面倒じゃないよ。全然。でも、お礼って何?」
「じゃあ明日の夜の7時に。地図をメールに添付して送りますから」
 お礼?のことは何もわからないままだった。石川から送られてきた地図を見ると、以前、虹を捕獲したことがある場所に近かった。そのとき石川は虹を見ただろうか。そのとき石川の妻と子供たちは虹を見ただろうか。
 同じ虹は、二つない。虹は人生に似ている、と言えるだろうか。それほど美しいものだろうか。それほど儚いものだろうか。逆に言えば、たとえば逆から考えてみる。人生を捕獲して、人工的に培養することは、果たして可能だろうか。

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