小説『虹をつかむ人 2020』第二十八章 Novel "The Rainbow Grabber 2020" Chapter 28

第二十八章

 いつものようにムロエは研究所の自分の部屋にいた。ちょっとした社長室のような部屋だが、ムロエは研究所以外で働いたことがないので、社長室のイメージはドラマやニュースのものだ。それに、といつも思う。私は女社長というよりも、社長秘書みたいだ。そういう姿形だし、業務レベルでも、決定することよりも調整することの方が多い。もしもムロエを今、隠し撮りしたら、社長不在の社長室で秘書がぼんやりしているように見えるだろう。
 その部屋でムロエは一人でいた。あれから一カ月経った。ムロエに渡辺からの連絡はなかった。ムロエは特に焦ることもなく、じっと待っていた。ムロエは研究所の上層部に所属しているため、ほぼすべての情報に接することができる。極秘でも、個人情報でも。
 ムロエは研究所内の独自のネットワークを駆使して、渡辺の動向をチェックしていた。あれ以後も、虹捕獲師として活躍しているようで、普通に生きていることがムロエを安心させた。施錠されなかった部屋に泥棒が入ることはなかったようだ。
 Mの自殺について元新聞記者のKとの検証を経て、ムロエはあらためてハードラーの動向にも気をつけるようになった。ハードラーの記憶は戻ったという報告がないところをみると、現状維持なのだろう。ハードラーの様子をそれとなく観察しても、記憶については、外から見てもよくわからない。外から見える車椅子での業務や生活も、特に不幸だとは見えなかった。大変かもしれないし、不自由かもしれないが、不幸には見えなかった。そう思いながら、ただ自分が鈍感なだけなのかもしれないが、ともムロエは思った。
 記憶とは何だろう?とムロエは自分の記憶の扉を開けてみた。古い記憶は多少曖昧ではあるけれど、少なくとも記憶は喪失していないようだ。虹は数分で消える。人も100年持てばいい方だ。虹の記憶。人の記憶。
 もともと研究所はムロエの一族が設立したものだった。今でこそ、公益財団法人になっているが、設立当初の明治のころは虹を探し回る初代所長は狂人扱いされた。虹の魅力や効能を説きながら支援者を増やし、少しずつ組織を大きく安定させていった。その過程では、新興宗教に間違えられたこともある(実際に宗教的分派も生まれたが、その分派は支持が得られず、のちに途絶えた)。戦後は、気象庁から吸収・併合も打診されたが、虹の効用や効果の科学的根拠が乏しいということで計画は頓挫した。そういう意味から、現在ムロエの仕事は、虹の捕獲の現場を離れて、科学的な根拠を集めることと、政財学界へのロビー活動が大半を占めている。
 ムロエは自分の記憶を辿って、一度も、虹を不快だと思ったことはないことに気がついた。それは当たり前すぎたが、不思議なことでもあった。たとえば、雨、風、雪、そして日差しさえも、度が過ぎれば不快の対象(不幸の原因)になる。虹はどうだろう? 虹は、なぜ不快にならないのだろう。虹はなぜ、人を不快にしないのか? 仮に、度が過ぎる虹というものが存在したとしても、大き過ぎる、眩しすぎる、いつまでも消えない、そういう虹が空に架かったとき、人は不快になるか? ならない。きっと笑顔になる。誰かに知らせたくなる。一緒に見たくなる。虹には、そういう力がある。
 記憶は大切だ、とムロエは思う。だとすると、亡くした記憶が戻らないとしたら人は絶望するのだろうか。するかもしれないが、ハードラーはそうではないように見える。今日は人生の一日だ。今日の体験は、明日の記憶だ。温かな記憶は焚火のように人の心を温かく明るく照らす(記憶がなければどうする? 日々記憶を追加すればいい。焚火に木を追加するように)。苦しい記憶はどうだろう? 人はそれを糧に大きく逞しく育つかもしれない。しかし、そういう強い前向きな人ばかりではない。それに耐えられないなら、人は上手に忘れるかもしれない。忘れることよりも、忘れられないことの方が、ある意味で不幸かもしれない。虹は後ろ向きで弱い人のために空に架かる。その通りだ、とムロエは思う。

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