小説『虹をつかむ人 2020』第三十一章 Novel "The Rainbow Grabber 2020" Chapter 31

第三十一章

 室絵さんへ
 お元気ですか。ご無沙汰しています。
 先日は突然部屋から消えてしまい、さぞ驚かれたことでしょう。どうもすみませんでした。自分の中で、頭を整理するためには、どうしてもまとまった時間が必要でした。
 まとまった時間のあと、謎解きは私なりに出来ましたが、それをどのようにして室絵さんに伝えたらいいのか、ずいぶん悩みました。結局、古典的な手紙、封書となりました。メールでも良かったのですが、それではあまりにも味気なく、素っ気なくて、仕事の書類ではないのですから、こうやって万年筆で書いています。
 まとまった時間のあと、私はまた虹の捕獲に懸命に取り組みました。虹をつかむ人として、その一回が最後になるかもしれないと思い、虹を捕獲することを楽しみました。そのうち、ふと虹の橋を端から渡ってみたらどうだろう、と思いました。研究所の過去のアーカイブをチェックしても、そういう記述も映像もありませんでした。誰もしたことがないようでした。
 この手紙が室絵さんに届くころ、私は虹の端をつかみ、虹の橋を渡って、どこかに消えていることでしょう。もしかしたら死んでいるかもしれませんが、仮にそうであったとしても、死ぬために虹の橋を渡ったわけではありません。
 空に架かる虹の橋を渡って、どこへ行くというわけではないのですが、Mに会えるかもしれない、Mの子供に会えるかもしれない、Mの父親に会えるかもしれない、と思いました。そうするために渡ろうとしたわけではなく、渡ろうと考えたあと、そのことを思ったのです。
 さて、そろそろ謎解きを始めましょう。
 私がメモに何を書いたのか? 私は自殺の直前にMから「妊娠している」と相談を受けたとき、相手がハードラーだと思いました。Mの自殺後、妊娠4カ月だったことを知ると、私は混乱しました。ハ-ドラーでないとすれば誰なのか。ずっと考えて生きてきましたが、わかりませんでした。あの日、偶然、Mの父親に会うまでは。近親相姦。その直感が雷のように私を貫きました。可能性はゼロではないと思いました。MやMの父親の人格、妊娠に至る行為の動機や経緯、妊娠後のMやMの父親の振る舞い、それらは、すべて無視しました。私の妄想ともいえる憶測は膨らみ、ただただ答えを求めていました。
 あのとき、とっさにメモを書き、メモをMの父親に拾わせ、読ませるためには、短い言葉が必要でした。
「お前がMのお腹の子供の父親だ。お前はMを自殺させ、Mのお腹の子供を殺した。俺は知っている。」と書きたいところですが、あの一瞬で、そんな長い文は書けません。
 Mの父親の、言い訳、言い逃れ、屁理屈、懺悔、などの説明は、あとからゆっくり聞けばいい。Mの父親の足を止めさせて、Mの父親に「お前のやったことを、すべてを知っている人間がここにいる」ということを知らせるだけでいい。そう考えた私はメモに、こう書きました。
「人殺し?」
 クエスチョンマークは、わざと付けました。断定しているわけではないから、説明してほしいというメッセージを込めたつもりでした。その気持ちは本音でした。私には、憶測はできても断定するだけの、証拠も証言もありませんでしたから。
 メモを読んだMの父親が「……だったんです」と私に何か言って、拝み、通過列車に飛び込んだ時、私の妄想は真実に変わってしまいました。と同時に、私こそが真実を暴くために「人殺し」になってしまいました。私にはそんなことをする資格があったのか。そんな資格はない。その時、私の中で確実に何かが壊れました。
 しかし、です。Mの父親の自殺が証明した真実は、本当に「Mの父親がMの子の父」なのか。室絵さんとKさんとの検証で、ハードラーの自殺未遂がMの父親による殺人未遂の可能性が否定できないなら、Mの父親の自殺が証明したことは「Mの父親がMの子の父『ではない』」ことになります。では何を証明したのか。「人殺し?」というメモを証明した、と私は考えます。つまり「ハードラーに対するMの父親の殺人未遂」を認めて、贖罪のために飛び込んだのではないか、ということです。
 そこでまた私は気がつきました。私は取り返しのつかないことをした。あの短いメモです。メモに、Mについて何か書けばよかった。「Mを知っている」でもよかったのです。Mの父親の足さえ止めてしまえば、Mの子供についての聞き取りはできたはずですから。その検証の過程で「ハードラーに対する殺人未遂」がMの父親から告白されたことは想像に難くないし、そうであるなら結果的に、私の妄想は妄想のまま消えたはずです。
 私の妄想が消えてしまうと、Mのお腹の子供の父親は誰なのか?という謎が、また復活します。
 室絵さんは、その謎の答えを知っているのではないですか? 私よりも先に気がついたのではないですか? 私はあの日、私の部屋のキッチンテーブルで室絵さんが語る、長い検証物語を聞いているうちに、その可能性に気づき、いまでは確信しています。
 Mの子の父は「渡辺」です。そうです。私、です。
 順を追って説明します。以前話したように、私とMは幼馴染みでした。多くの男女の幼馴染がそうであるように、お互いの体が成長するにつれて、関係がぎこちなく不自然になったり、幼馴染みという関係そのものが壊れることもあります。私たちも、言ってみれば、そんな感じでした。ぎこちなさにお互いが困惑していましたが、関係を壊したいとも思っていませんでした。
 あの寒い二月の日曜日の朝、Mが自宅に私を招きました。Mの母親は病院へ定期健診、父親は付き添いで出かけていました。両親不在のMの家に遊びに行くことは、私にとっては不自然なことではありませんでした。受け入れるMにとっても、よくあることでした。二人で、コーヒーを飲んだり、ケーキを食べたり、音楽を聴いたり、トランプをしたり、共通の友人の話をしたり……。そのたびにMは私の、腕に触れたり、背中を軽く叩いたり、太ももを触ったりしていました。特にその行為に意味はありません。私が相手ではなくても(さすがに男子相手は私だけですが)Mはよくそんなふうに誰かに触れていましたし、そうするのが好きなようでした。でも、そのとき私に困ったことが起こりました。勃起したのです。もちろん意味はありません。健康な男子の体が自然に反応してしまっただけです。Mに対して、欲情すらしていなかったはずです。Mとは関係が近過ぎて、家族みたいで、そういう対象ではなかったのです。このままではまずいと思い「もう帰る」と言いました。すると「どうして?」とMが言います。「どうしても」と私が言うと「大きくなったからでしょう?」とMが言うのです。勃起はバレていたのです。私が恥ずかしくて、下を向いて黙っていると、Mは服を脱ぎ始めました。「やめろよ。どういうつもりだ?」と聞くと、「渡辺君は女子の体、興味ないの?」と言います。そして「私は男子の体、興味あるわ。でも誰でも、ってわけにはいかないでしょ、渡辺君だって。だから脱いで、渡辺君も。昔、したように。早くしないと、お母さん達が帰ってくるから」と続けました。私たちは、もっと幼いころ、小学校に入る前にいわゆる「お医者さんごっこ」をしたことがありました。犬や猫がじゃれ合うような感覚だったことを覚えています。Mはそのことを「昔、したように」と言ったのです。気がつくと、私たちは裸で抱き合っていました。お互いの体をぎこちなく触り合っていました。それは犬や猫を撫でるよりも不慣れな感じでした。狭いベッドはギシギシと鳴ります。ときどきクスクスと笑い合いました。ベッドに入ってから出るまで、私たちは幼い恋人同士というよりも、大人になりかけた幼馴染みでした。外は雪だったかもしれませんが、部屋の中でベッドの毛布にくるまっていた私たちは温かでした。そういうことをするのは、お互いに初めてでしたが、最後まではしないようにしました。避妊のこともよく知らず、コンドームを用意しているわけでもなく、そのうえ妊娠が怖かったからです。「もしも最後までするなら、避妊具を用意してから」とMが言って、私が納得しました。そういうことを面と向かって言い合うのですから、私たちの触れ合いは、恋人たちの愛撫というよりも医者と患者の触診みたいなものでした。私は本当に挿入はしていません。今さらこの手紙で嘘などつきません。ではなぜ、私がMの子の父であるのか? その可能性がゼロではないからです。触り合っている途中、いきなり射精したときがあり、毛布に飛び散った精液がMの体内に付着したかもしれないからです。もちろんMは怒るわけではなく「洗濯は私がするからバレないけど、きれいに落ちなかったら、新しいの買ってね」と笑っていました。私はMの両親が帰宅する前に帰りました。「晩御飯食べて帰ればいいのに」と言ってくれましたが、さすがに、それは遠慮しました。
 そのあと新学期が始まるまで、そんなふうに親密に会うことはありませんでした。別に避けていたわけではありませんが、何となくです。新学期が始まると、Mが先輩と付き合っていることを知りました。それもM本人から教えられました。
「先輩が付き合ってくれって」「付き合いたいなら、付き合えばいいと思うよ」「じゃあ、ちょっと付き合ってみる。先輩と付き合っていても、幼馴染みとして、時々、会ってくれる?」「いいけど。先輩が嫌がるんじゃないのかな」「そうかな」「そうだよ」。そんな会話をしたことを覚えています。そんな会話ができるほど、私たちは幼馴染みであり、お互いがお互いの、自分の半分みたいな感覚でした。
 そして運命の6月を迎えます。Mから妊娠を告げられた私は、(お腹の子の父である)先輩に相談しろとMを突き放し、Mが飛び降り自殺をします。今思えば、私だけに相談したのは私が幼馴染みだったからではなく、私がお腹の子の父だったからです。少なくともMはそう確信していたのです。
 すべては私から始まりました。Mの子の父は私であり、Mを屋上から飛び降ろさせたのも私であり、Mの父親に殺人未遂をさせたのも私であり。ハードラーの記憶を奪った(そして半身不随にした)のも私であり、Mの父親を列車に飛び込ませたのも私です。
 Mの父親が列車に飛び込んだのは、殺人未遂への贖罪だとすると、私に向かって拝んだのは「感謝」ではありえません。私は、それを「赦し」ではないかと思っています。私に対する「赦し」だとは、そこまで厚かましく思っていません。Mの父親が私と同じように、Mの子の父を、まずハードラーだと疑い、そうでないことを知ったとき、幼馴染みの渡辺に辿り着いたかもしれません。だとすれば、自死ではなくて、私を殺してもよかったはずです。それでも自死を選んだことが、一連の過去に対しての「赦し」ではないのかと思うのです。本当のことはわかりません。ただ私が勝手にそう思いたいだけかもしれません。Mの父親が最後に言った言葉も聞き取れなかったので、やはり謎は残ります。それを聞き続けることが、これからの私の使命かもしれません。
 私の長い手紙はこれで終わります。謎を解きながら、ここまで書き綴ってみて、Mを失った哀しみが改めて溢れてきます。Mは親友でも家族でも恋人でもなく、結局、私自身でした。私とMが二人で一人だったとすれば、その子供が、まさに私とMだったのです。私は、そのとき私を殺してしまったのです。それに気づかないまま、生きてきた自分を、本当に哀れに思います。
 室絵さん、私は死ぬために虹を渡るのではありません。私が殺した人に会うために、そして私自身に会うために渡ります。虹を見たら、初めて虹をつかんで渡った、私のことを思い出してください。
 室絵さん、それではまた。お元気で。いつかまたどこかで。私は虹の上から、いつも見ています。(完)

           【noteの読者のための後書き】
 読者の皆様、読了いただき、誠にありがとうございました。もしよろしければ、感想のコメントをいただけると幸いです。
 【noteの読者のための前書き】にも書きましたが、『虹をつかむ人 2020』は2014年に書いた『虹をつかむ人』の続編です(前作を読まずに、今作だけを読むと、わけがわからないかもしれませんね。ごめんなさい。前作もマガジンに入っていますので、よろしければ、ご一読を)。
 作者は、まるで新聞に小説を連載するような感覚で、毎日、楽しみながら書きました。前作に登場した人物が今回もいろいろと動いてくれたのは良かったのですが、さすがに、ここまで長くなるとは思いませんでした。
 毎日連載のため、不整合や矛盾も多々あると思いますが、単行本の際に、編集担当者と検討しながら加筆訂正していくつもりです(というのは、希望的観測的な冗談です)。次回作もお楽しみに!

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